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【大分県大分市】鶴崎大神宮

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大分県大分市鎮座の鶴崎大神宮
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 鶴崎大神宮沿革

 鶴崎大神宮は、明治の初め、伊勢神宮からご分霊をいただき、鶴崎の現在地に奉斎、ご鎮座坐しました神社であります。日本の親神さま、天照大御神さまが主祭神です。

 ご鎮座当初は、神宮奉斎会鶴崎教会という名称で所謂伊勢神宮の遥拝所でありました。

その昔から「一生に一度はお伊勢まいり」と言われ国民は皆、一生に一回だけでも伊勢神宮に御参りすることを念願していたのですが、何分時代が時代だけに、交通の便や費用の問題で、御参りすることは至難の技でありました。そこで、伊勢へ御参りすることが難しい人々のために明治政府と伊勢神宮は、このような遥拝所を全国31地区に設置した訳です。その当時鶴崎には、県庁を建てるという話もあり

鶴崎の人々は「県庁をとるか、神宮をとるか」という問題をかかえたが、結局、神宮のほうを選んで勧請した。-という伝説が残っています。我々鶴崎の先達たちは、敬神祟祖の念が非常に篤い人々であった、という証拠でありましょう。

 このようにして、鶴崎住民挙げて奉斎したこのお宮は「鶴崎のお伊勢さま」また「神宮さま」と愛称され、県下各地からお伊勢さま参りの老若男女で賑わったと聞いております。また、春の大祭には「神宮の市」が立ち、沢山の露店やサーカスなどで、ご社頭の賑わいは大変なものであったと伝えられております。「神宮の市」に続いて皆春天満社の「門田の市」阪ノ市の「万弘寺の市」が立ち、三大市と呼ばれました。

 鶴崎大神宮は、今では小さな神社ではありますが、格式高く、由緒あるお宮です。「日本人のこころのふるさと」といわれる伊勢の神宮を本祟に戴き、日本建国以来、我々の祖先代々引き継いできた「日本人のこころ」である神の道を絶やすこと無く、益々栄えしめたいと考えております。

※境内には忠魂碑が建てられており、日露戦役以来の郷土出身の百四十七柱の英霊を合祀し、毎年5月中旬に慰霊祭が斎行されております。


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鶴崎大神宮

「五つ石」

鶴崎大神宮の境内地は加藤清正が慶長七年(1602)川から水を引き舟の泊地を造る際、堀り上げた土砂で築いた台地で亀の形をしていたので、亀丘と呼ばれ境内は現在の二倍以上ありました。

明治十二年(1879)大神宮神殿造営の際に顕れたのがこの五つ石で五神体(御神体)としてあがめられ一家の安泰と繁栄をあらわしております。この五つ石を撫でて頭にその手を当てれば願いが叶うと言い伝えられております。


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五つ石
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本殿
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拝殿

 

神社名 鶴崎大神宮
住所 大分県大分市鶴崎1丁目4−28
TEL 097-527-2838
御祭神 天照大御神
創建年 明治初期
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【大分県大分市】若宮八幡神社

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大分県大分市鎮座の若宮八幡神社
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大友氏の初代能直が1190~1199年(建久年間)に、源氏の氏神である八幡神を鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊したと伝えられます。

大友氏の氏神として崇拝が厚く、21代宗麟や、その父20代義鑑が神殿を修営しています。また、宗麟の祖父にあたる19代義長は、1510年(永正5)に、釣鐘と鐘楼を寄進しています。

ちなみ、3江戸時代になると、島津氏との争いにより荒廃していた当社を、竹中重利をはじめとした近世府内城の歴代城主が再築し、1644年(正保元)には日根野吉明により祭礼も再び行われるようになります。1741年(元文6)、松平近貞の娘八十姫が櫛を33枚奉納したことに月3日の祭りは御櫛形祭禮と呼ばれ、神楽や能が演じられるなど、賑やかな様子が「府内藩日記」に記されています。


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当神社は今を去る八百有余年人皇八十二代後鳥羽天皇の御宇建久七年六月藤原朝臣大友能直公豊後の守護職として入国のさい相州鎌倉鶴ケ岡八幡宮の御神霊を迎え奉り鎮守氏神として奉斎したるものなり。

爾来柞原八幡宮と共に東西の二大古社として崇敬最も厚く其の後大友氏に次ぎ早川氏福原氏日根野氏大給氏等国主の移封ありしと雖も何れも府内鎮守の神として崇敬し世々天下泰平五穀豊穣祈願し奉れり

 

豊後七社

豊後の国七社の若宮八幡社長慶天皇の御宇、大友親世氏が七か所に当若宮八幡社の御分霊を別宮として建て神領を献し神宝を調進し奉りし社なり

 

社地移転

当神社は豊府城外古加鶴より建仁元年社地を府中に移し明治十四年六月府内町今の府内アクアパーク一帯の宮地に遷座し、大正十年七月旧社地の西側、現在地に遷宮し奉る

 

楢神社

楢神社は今を去る百余年前奈良県下市郷鎮座楢神社の御分霊(子供の守護神)を菅野嘉津馬翁が若宮の境内に御勧請申し上げたのが創始でありまして、爾来子供の守護神として信仰は広く御霊験を蒙り子宝が恵まれ無事成長せる兄弟を称して大楢・小楢と呼ぶ程に現今猶様の氏子として奉賽の誠を捧げ又子供の無事成長祈願の為参詣する者多し

 

天満社

本社は昔府内天神と称し奉り市内十間堀以西二十九カ町の氏神として崇敬せられたり、南新地に鎮座の処大友神社と共に今の処へ移転せらる。文教の神として崇敬する者多し。

 

多賀神社

天照大神の御親神にまします。本社西南側石の社に奉祀古来より人の生命をまもらせ給う故に延命長寿の守り神として信仰され朝夕参拝される者多し

 

錦天満社

錦天満社は昭和四十九年八月八日錦町より遷座奉る

 

蛭子社

府内七恵比須の一社元小物座町より平成二年遷座奉る


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拝殿
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本殿

神社名 若宮八幡社
住所 大分県大分市上野町10
TEL 097-532-6452
御祭神 帯中津比古命、品陀和気命息長帯比売命、大雀命、外神に善神王
創建年 1196年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【大分県大分市】府内城

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天守

天守閣は厄16mの高さを持つ4層式建物で、壁には優美さを添える華灯窓が付けられ、上棟には鯱鉾瓦が葺かれていました。今は、天守台のみが当時の面影を偲ばせています。

②東之丸

藩主の御殿と三階櫓を含む5棟の櫓がありました。御殿は居間、湯殿、御台所、大広間、御茶所、老女部屋等、数多くの部屋に分かれていました。

③西之丸

本丸の西に位置し、櫓が4棟配されていました。『府内藩日記』から玄関・居間・書院・台所などの多くの部屋から成る建物があったと思われます。

④山里丸

寛永18年(1641)、城北の風光明媚な地に築山・泉水を設け、あずまやをもつ庭園を造り「山里」と名づけられます。松平氏の頃は、能の興行や節句の御礼などが催されていました。

⑤北之丸

城の西北に独立したように配置され、本丸を守るための砦として築かれたと考えられます。安政3年(1856)に藩校遊焉館が置かれ、教育の場へと移り変わります。

⑥宗門櫓

大手門をくぐると正面左に見える櫓で、外から見ると平櫓に、城内からは二重に見える建物です。安政元年(1854)に修築が行われ、大分大空襲から被災を免れ、築城当初の面影を残す数少ない建物です。

⑦人質櫓

本丸の最も北側に位置する二重櫓で、寛保3年の大火(1743)の際は焼け残りました。安政元年(1854)の大地震で損壊したため再築されますが、大分大空襲からは被災を免れ、宗門櫓とともに江戸時代の建築様式を伝える貴重な建物です。


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府内城は1597(慶長二)年、福原直高により築城が始められ二年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代わった早川長敏も1600(慶長五)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には、熊本藩加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長七)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1㎞、南北約1㎞におよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。

 荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に、城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたと言われています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。

 城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非達をとがめられて断絶しました。代わって1634(寛永十一)年、壬生城(栃木県)から、日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治四)年の廃藩置県まで、二万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保三)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は、再建されませんでした。

 1871(明治四)年十一月大分県が成立。翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正十)年二は、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和三十七)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和四十一)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和二十)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取り戻しました。

 城跡は旧状をとどめる堀、土堀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城跡公園として市民の憩いの場になっています。


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人柱お宮

 今からおよそ400年余り前、福原直高がこの地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害で工事が進まなかったことから、人柱を立てることになりました。「人柱の家族の者は、一生安楽に暮らせるようにする」というお触れに、上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱になりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。

 手前の階段を下った所、お堀に沿った天守台の下に■た祠があり、毎年3月18日に法要が行われています。


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冠木門

かつて西の丸と廊下橋の間には、冠木門(柱の上に横木を渡した屋根のない門)があり、この石は■の冠木門の礎石です。


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廊下橋

 松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。

 山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。

 復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。


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木下郁先生と上田保先生は、近代大分県が生んだ大政治家である。木下先生は名知事、上田先生は名市長として、其に四期十六年間引き続き公選され、予ねて豊かな郷土づくりと福祉社会の実現を政治の理念とした両先生は、密かに殷賑を極めた大友時代の再来を念じながら、戦後の民主的地方自治の確立、郷土大分の発展と福祉の向上に献身された。その間の業績は極めて顕著であるが、とりわけ戦災復興と世紀の大事業大分地区新産都の建設に当たっては、先見、独創、英断、清廉等天性の美質に加え、肝胆相照らす永年の親交により、県市一体、特有の政治力を発揮して、見事輝かしい新生大分の基盤を確立したその功績は誠に抜群であった。寛くこれを知る郷土では両先生退任の後も高く、その余徳を仰ぎ、深くその人を敬慕した。然るに昭和五十五年六月、上田先生は満八十五歳、木下先生は亦八十六歳の天寿をもって僅か旬日を置き相次いで溢焉として白玉楼中の人となられた。この不慮の不幸に遭った郷土の懸嘆は深く、巨星堕つと痛惜し、木下先生は地方自治六団体合同追悼式、上田先生は大分市名誉市民葬の礼をもって篤く袁憐の誠を捧げた。その後、期せずして銅像建設の議が起こり、有志相諮って直ちに期成会を結成し、広くは湖の協賛を仰ぐや、極めて順調に所期の目的が達成された。これに応え期成会はその製作を、斯界の耆宿、日本芸術院会員、日展理事長の富永直樹先生に起請した。爾来一年有余、巨匠の手になる芸術の香気深いこの傑作を両先生最もゆかりの地に建立し得たことは殊に意義深い慶事である。同座に並びたち、さながら郷土大分の繁栄と福祉を語り掛ける颯爽たるこの英像を、永遠に新生大分の薫り高い象徴としたいものである。
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木下郁先生の経歴

明治27年 宇佐郡安心院町にて出生

大正7年 東京帝国大学法科卒業

大正12年 ドイツ、イギリスに留学

大正15年 弁護士開業

昭和17年 衆議院議員

昭和20年 大分市

昭和27年 大分県弁護士会会長

昭和27年 衆議院議員

昭和30年 大分県知事以後四選され、昭和46年知事辞任

昭和46年 勲二等旭日重光賞を受賞

昭和55年6月19日逝去

従三位に叙せらる

享年86歳

 

上田保先生の経歴

明治27年 大分市大字畑中にて出生

明治45年 大分中学から法政大学に学ぶ

大正11年 弁護士開業

昭和22年 大分市長 以後四選さる

昭和33年 洗礼を受く 

昭和38年 高崎山自然動物園開設等の功により日本観光協会功労賞受賞

昭和49年 聖パウロ六世から聖大グレゴリオ賞受賞

昭和55年6月6日逝去 享年85歳


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遺跡名 府内城
住所 大分県大分市荷揚町4
TEL  
年代  
指定区分  
駐車場  

【大分県大分市】長浜神社

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大分県大分市鎮座の長浜神社
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拝殿
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本殿

神社名 長浜神社
住所 大分県大分市長浜町1丁目8−7
TEL 097-532-6452
御祭神 少彦名命菅原道真命、倉稲魂命
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【大分県大分市】松栄神社

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大分県大分市鎮座の松栄神社
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松栄神社沿革

 当神社は慶長末期、上州(現在群馬県)水沼村に松平家徳川家康生家)の祭神近正八幡宮として創祀され、戦国時代混乱治世の神、疫病災厄鎮護の神として国内に名高く国民の信仰顕著なりしため、享保十四年(1729年)豊後府内藩主直参の宮として城内山里の邸この土地に祭祀され、寛政十一年神託により松栄山(現県護国神社社地)に遷宮、松栄神社と称されたがその後、日田広瀬久兵衛の助言もあり、藩財政の確立成り、幕府の信頼も厚く国内の信仰いよいよ広まり明治十八年住民の信望に応え、市内堀川町奉行所跡地に新宮建立遷宮す。

更に明治三十三年現在地に復元し今日に至るが、その後幾多の災害や昭和二十年の大戦災も奇跡的に免れ全市民の信仰益々厚く祭典も数日に渉り盛大に行われたが、終戦後、世相の変遷により荒廃極に達したので、昭和四十三年全市民の協賛により明治百年記念改修が行われ面目を一新し、事情も新産都進行の途上の市発展守護の神とし、市民のシンボルとなり、加えて疫病免除産業繁栄の神徳を祈る参拝者は日を追って増加しつつある。
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拝殿

神社名 松栄神社
住所 大分県大分市荷揚町4−20
TEL 097-532-4780
御祭神  
創建年 1792年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【大分県大分市】春日神社

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大分県大分市鎮座の春日神
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敬神生活の綱領

神道は天地悠久の大道であって崇高なる精神を培い太平を開くの基である。神慮を畏み祖訓をつぎいよいよ道の精華を発揮し人類の福祉を増進するは使命を達成する所以である。ここにこの綱領をかかげて、向かうところを明らかにし実践につとめて以て大道を宣揚することを期する。

  1. 神の恵みと祖先の恩とに感謝し明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと
  1. 世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
  1. 大御心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること


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春日神社略記

 天平年、中市川葉が南都三笠山より勧請し奉ったとも又清和天皇の御宇、貞観二年三月国司藤原朝臣世■が勅を奉じて奈良の春日大社の四所大神を勧請したとも伝えられ一千一、二百年余の歴史を有する古社である。建久七年大友能直が当国に封ぜられてより二十二代三百五十八年間居城府内の総廟として厚く崇敬し特に二代親秀は社領八十貫を奉献する等歴代の守護職、藩主等は年々の祭祀料は申すまでもなくしばしば社領を奉り、又社殿の修復を行ってきた。因に大友親秀の奉献した社領菖無田、忌垣田、相撲田は今尚小字名などとなって語り伝えられている。慶長十二年藩主竹中重利は江戸参勤の帰途、播磨灘に於いて暴風雨のため危機にさらされたが遥かに春日宮に祈請して無事に帰還し得たので境内に松拾万本を植えて奉斎した当時の広大なりし境域を偲ぶことができる。

 当社は創祀以来二度戦災のために社殿はことごとく燃上し又貴重なる社宝、記録等をも亡失した。第一回は天正十二年島津軍の府内入城の際であり、次は昭和二十年七月大東亜戦争の末期、アメリカ空軍の焼夷爆撃によるものである。

 現社殿は氏子崇敬者の浄財、寄付金等を以て再建し、昭和四十二年十月十八日遷座祭を斎行した。尚当社は旧県社であったが昭和四十三年七月一日別表神社に昇格した。
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楼門
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拝殿
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本殿

 

神社名 春日神
住所 大分県大分市勢家町4丁目6−6−87
TEL 097-532-5638
御祭神 武甕槌命経津主命天津児屋根命姫大神
創建年 861年
社格 県社、別表神社
建築様式  
駐車場  
御朱印