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歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【福岡県うきは市】浮羽島

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浮羽島の由来

 

 日本の一番古い正史、日本書紀や八世紀に出来た風土記に次の逸話が記されています。

 景行天皇の十八年八月(おおよそ1900年前)九州御巡幸の時、天皇は八女からこの地にお出でになって御食事をなさいましたが、お供のお料理番たちが盃を持って来るのを忘れていました。

 天皇は、「惜しきかも、朕が酒盃はや」(おしい事をしたものだ、私の盃を忘れたとは)と嘆かれました。その頃さかずきを「うき」と言っていました。それ以来この地を「宇枳波夜」の郡と呼び、なまって生葉、浮羽と呼ぶ様になり、村名・町名・郡名のもととなりました。

 ここには天皇の杖が根づいたと言われる逆杉があって、台風や落雷で枯れても住民たちが植えついで大切にしてきました。浮羽の地が古代から中央の史書に記されていることは意義深いことでしょう。
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浮羽島由緒

 

日本書紀

景行天皇十八年八月到的村而進食 是日 膳夫等 遣盞 故時人號具忘盞日浮羽 今請的者訛也 昔筑紫■號盞日浮羽

 

筑後風土記 続日本紀

的邑

 

公望私記日 案 筑後風土記云 昔景行天皇巡國既■遷都之時 膳司在此村 忘御酒盞云々 天皇勅日惜哉 朕之酒盞 因日枳波夜郡後人■號生葉郡
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【福岡県うきは市】正平塔

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正平塔

 

 筑後川から取水した大石・長野水道のほとり、田園の中にある宝塔で、正平十八年の銘があり俗に「正平塔」という。

 塔身には金剛界五仏を示す四種の梵字を彫し、「願以此功徳普及於一切我等興衆生皆共成仏道」正平十八年(1363)七月八日、調衆各敬白の普回向の銘文が刻まれている。

 調衆は、黒木助能を始祖とする星野・黒木・川崎の三氏で元々は兄弟である。なかでも星野氏は、耳納山の山城を拠点として吉井周辺を支配していた。南北朝の戦乱には、肥後の菊池氏と征西将軍懐良親王を奉じて南朝の皇運回復に誠忠を尽した。北朝武家側とは幾度も戦い、多くの生命が失われた。正平十四年の大原合戦(筑後川の戦い)は、両軍最大の激戦で双方とも多数の戦没者が出た。これらの戦いで散華した両軍将士の霊を供養するため調衆が建立したものである。


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【福岡県うきは市】水神社

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福岡県うきは市鎮座の水神社
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水神社の由来

 

 この水神社は、吉井町で最も小さな九尺二間の拝殿と、奥の神殿は石祠という昔ながらの素朴なたたずましですが、吉井町を東西に貫通する用水路(南新川)の要に位置する大切な川の神様で、日々の暮らしや生産流通に深く関わって、長く地域の人々の尊崇を集めてきました。

 水神社を包むように流れる水路が掘られたのは、三百年以上も昔。当初は灌漑用でしたが、すぐ生活用水にも利用され、防火用や水上運輸にも重宝されました。やがて、水車を回して新しい動力エネルギー源となり、数々の新興産業を育てては、吉井町の富と文化を生み出してきました。その一方では、恐ろしい水害や悲しい水の事故を齎しました。人々は川に感謝し、川を恐れ、川と大事にふれあうことの大切さを知り、それを形に表すため、この水神社を祀って天保13年(1842)秋に建立したと伝えられています。この一帯の地名を「金川」といいますが、「金を生み出す川」から、名付けられたという説もあります。


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近くの用水路
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拝殿

 

 

【福岡県久留米市】高樹神社

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福岡県久留米市鎮座の高樹神社
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高樹神社

 

 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。古くは高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。

 この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(878)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位上ヲ授ク」とあり、やがて、正五位下に進んだことが、天慶七年(944)の「筑後国神名帳」によって知られる。

 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。

 明治六年(1873)三月十四日郷社に列し、大正十一年(1922)十一月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定された。
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享保9年(1724年)奉納の狛犬(市指定)
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拝殿
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本殿
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御手洗橋・放生池

 

ここは、もと谷あいで土橋がかかっていました。

安永年間(1772~80年)、久留米藩が今の様に整備して放生池を営み、享和三年(1803)九月に石橋ができました。橋の疑宝珠(欄干のネギの花の形をした飾り)は、藩の御用鋳物師植木家の作であります。

 左手前方の中島には、厳島神社があります。池の南岸の玉垣は、高良の神がここで御手を洗って山に登られた、といういわれのある井戸の名残りです。

 

(御手洗の名の起り)

 後ろに見上げる丘の木立には、もと新清水観音堂(明治以降豊比メ神社)と芭蕉を祀る桃青霊神社がありました。むかし、この池は蛍の名所で高良山十景の一つ、『御手洗の蛍』とされていました。

 

くるゝは蛍すすしくかは風に

 みだれ橋てふ名もくちすして
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御手洗橋
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御手洗橋近くにあった不動明王

 

【福岡県みやま市】竹飯八幡宮

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福岡県みやま市鎮座の竹飯八幡宮
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竹飯八幡宮肥前型鳥居

 

 普通私たちのみる鳥居は笠木が全体的に曲線になっていますが、肥前型では両端だけが曲線となっており島木と貫の間が狭くて、笠石はずん胴で、二段あるいは三段の継目をもっています。基礎部分も台座をもたず掘っ立て式になっているのが特徴です。

 筑後地方には、北野天満宮石造鳥居(県指定)、水田天満宮石造鳥居(県指定)、三島神社石造鳥居(柳川市指定)、玉垂神社の鳥居(みやま市指定)等の肥前型鳥居があって、それぞれ有形文化財として指定されています。

 この鳥居は当地における唯一の肥前型鳥居で材質は杵島地方の安山岩です。肥前には硯川の石工が有名ですが、残念ながら石工名及び、造立紀念銘はなく、いつだれが作ったのかは明らかではありません。竹井城の祈願神社としての性格をもっている八幡宮であることから田尻氏の寄進とも考えられています。
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楼門
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竹飯八幡宮のイチイガシ

 

 竹飯八幡宮のイチイガシは応神天皇武甕槌神住吉三神を祀る八幡宮境内に神木として聖母堂前と本殿横に二本あります。

 樹勢は二本とも旺盛ですが、聖母堂前の樹の方が大きく枝も張り広がっています。

 平成三年度の調査時はそれぞれ聖母堂前の樹の樹高約27m、幹回り4.3m、本殿横の樹は、樹高約15m、幹回り3.6mを測り、樹齢は二本とも約300年と推定されました。

 イチイガシはブナ科の常緑高木、雌雄同株で花期は四月から五月頃、果実は長さ2㎝、径1・5~2㎝のどんぐりで、老木になると樹皮がはげて波状の模様がでます。

 本州(関東南部以西)、四国、九州、済州島、台湾、中国に分布します。
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イチイガシ
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竹飯稚児風流

 

 この風流は新暦の十月十日、竹飯八幡宮大祭の宮入り行事(神幸祭)に奉仕します。

 稚児風流の由緒は定かではありませんが、古老の言い伝えによりますと、旧柳川藩時代、村の青年たちが、田植えが終わって氏神に詣でて、東竹飯、西竹飯に分かれて田圃を鉦や太鼓を打ち鳴らし、稲虫、風除けの祈願としたのに始まる、と言われて、明治時代になって、秋祭りの神幸祭に奉仕するようになりました。

 風流とは、「浮立」とも書き、太鼓・鉦を打ち鳴らしながら道を練り、群舞します。仮面・仮装で飾るものが多く、災厄しずめ、また豊作を祈って踊る、民俗芸能です。

 竹飯の風流は、名前の如く子供のみで行うところに特色があります。頭にシャグマ(赫熊)を被り、女性用の和服姿に化粧をし赤青のタスキを掛け、前垂れ、手甲、脚絆に草履掛けで、鉦に合わせて、身振り手振りよろしく大太鼓を廻し打ちするのです。太鼓の打ち方は『ソンジャホイ』『ドンデンガイガイ』『カカサンカカサンカカサンバイ』等があり座組の大人が指導し鉦は大人が拍子にあわせて叩きます。

 大祭前日の夕方から始まる「よど祭」(前夜に行う夜宮祭)と当日の「宮入り」に、座元から行列しながら風流を披露します。

 当日お宮に到着した稚児たちは、境内で叩いて舞いながら、五穀豊穣、悪病退散、稲虫除けなどを祈願し、稚児風流太鼓を披露します。
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境内社の聖母堂
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拝殿
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本殿

 

【福岡県筑後市】水田天満宮

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福岡県筑後市鎮座の水田天満宮
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肥前型鳥居の石造鳥居
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楼門
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 筑後市大字水田にある天満宮で、大宰府安楽寺領の主要な荘園のひとつとして知られる水田荘は、建長2年(1250)以前にすでに成立しており、経済的な中心であったとされています。社名は「老松社」「老松宮」「水田天神」などの変遷が記録されています。

 

水田天満宮本殿(県指定文化財

 菅原道真公を祭祀しているこのお宮は、嘉禄2年(1226)後堀川天皇の勅を受けて菅原為長が創建したと社伝にあります。現在の本殿は、平成3年に襲来した台風の影響により解体修復を行ったものですが、修理前本殿は寛文12年(1672)に菅原法印信兼により再建されており、太宰府天満宮の建築様式を踏襲していました。構造は正面3間、側面4間の「三間社流造」で、正面に「妻入唐破風向拝」、大屋根は「千鳥破風付」、拝殿の左右に「車寄」があります。本殿の内部は拝殿外陣及び内陣に分かれ、拝殿は三間一面、外陣及び内陣は五間となっています。

 なお、屋根はこれまで「檜皮葺」とされていましたが、解体修理中に、「杮葺」であったことが判明し、現在は「杮葺」に戻されています。

 

石造鳥居(県指定文化財

 水田天満宮の参道のほぼ中ほどの橋側にあり、形式は「明神鳥居」で、構造的にみると明神形式の特徴の一つである亀腹(柱を支える基礎)はなく、「肥前型鳥居」の範疇に入ります。笠木・島木・柱・貫のいづれも三石構造で、反りは極めて少なく、左右に銘が刻まれています。

 

石造狛犬(県指定文化財

 水田天満宮本殿の裏にある狛犬で、石材は凝灰岩製。像高は54.5㎝を測ります。背部に銘文が刻まれており「奉寄進獅子駒 諸願成就■■敬白 慶長十五年■戌卯月二五日 肥前国住・・・長安」とあります。愛嬌のある写実的でない顔は「肥前狛犬」の特徴のひとつでもあります。

 

木造火王水王面(県指定文化財

 天文10年(1541)の作で、火王面は(阿型)、水王面は(吽型)の対相をなしています。木造火王水王面は共に一木彫りで、裏側が彫り抜かれ、鼻先は接ぎ合わせとなっています。寸法は、面高24㎝、面幅17㎝、面厚11㎝を測り、面は三叉鉾に取り付けられ、御神幸の指導となすものです。火王面の裏に墨書銘があり、「老松宮天文十年九月■日 宮司坊信順」と書かれています。
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木造獅子頭

 永正15年(1518)の作で、黒獅子は面長31㎝、面幅32㎝、面高22㎝、赤獅子は面長32㎝、面幅32㎝、面高31㎝を測ります。上顎の裏面を掘り抜き、下顎は別材で上顎下に挿入し、鉄材の芯棒を通して下顎を開閉させる仕組みになっています。「大願主快■同赤女敬白 水田老松宮御宝殿獅子一頭 作者■嶋家政」の銘があり、この獅子頭は室町期における筑後地方の標準型とされています。

 

水田の森「クス・イチイガシ」

 水田天満宮境内に点在しています「クス」と「イチイガシ」は平地での社業として美観を保ちながら旺盛な樹勢を維持していることで珍しく、森は一括で指定を受けています。「クス」は23本で、このうち胸高周囲1m以上のものが10本あります、一方、「イチイガシ」は10本で、このうち胸高周囲2m以上のものが4本あり、樹高の大きいものは24.4mにも達します。

 

稚児風流

 毎年10月25日、水田天満宮神幸祭に豊作を祈って奉納されるもので、神輿の渡御前には町内をねり回り、幽界の神遊びの幻像をこの世に示現した舞楽をします。別名「ドイカンカン」ともよばれ、衣装は頭に「シャグマ」、体に「陣羽織」、足に「フングミ」、「自足袋」、「わらじ」を身に付けます。手には陣太鼓と鉦を分担し、大太鼓にあわせて「ハーエンヤーアイ、ヤーアイ(栄あれやの意)」の掛け声とともに風流を舞います。

 

千燈明

 水田天満宮の千燈明花火大祭は、毎年8月25日に氏子の奉納行事をするものです。この祭りで見ることのできる千燈明は、まず楼門や鳥居形の燈籠を作り、櫓に一定の間隔を開けながら粘土を付け、その上に帆立貝の殻を置いて油を注ぎ点火して夜空の楼閣の姿を浮かび上がらせます。
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心字池
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青銅製菅公御神像奉納者野口市太郎氏は明治二十八年二月二日、水田村上北島に生まれ野口安太郎氏の長男幼時より志を立て明治四十二年八月十五才の折上阪海外メリアス貿易商八木福商会に入社。大正十年退社、独立翌十一年露・満・中支を視察し、昭和五年四月北米・中米・南米各地を市場販路拡張の為三ヶ年に渉り調査して多大の成果を収め現在引継ぎ繊維、編み物製造輸出商として益々発展されつつある。市太郎氏は幼少より氏神菅公信仰の念厚く■も本年は大阪在住五十年を記念されて多年の念願成就ここに菅公御神像を奉納されたものである。
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菅原道真
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さざれ石

 この石は、国家に歌われている「さざれ石」です。岐阜県揖斐郡春日村に産出する珍しい石で、学名を石灰質角礫岩といい、石灰岩が長い年月の間雨水に溶けて鍾乳石と同質の粘液が次第に小石を凝結してだんだん巨岩になり苔むしたものであります。

巨大な石は、高さ4mで120トンにおよび岐阜県の天然記念物に指定されています。

 日本の国は、このさざれ石の様に、小さい石が降り積もって大きな石になり、なおその上に苔が、生える様に千年も万年も永く永く栄えます様に。と歌われています。
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すずめ蜂を銜えた鷽鳥

 

この二羽の石鷽鳥は、天神様の御神幸や参拝者をすずめ蜂が襲った時に、鷽鳥が飛来してすずめ蜂を噛み追い払い、人々を助けた事は有名です。

嘴にはすずめ蜂を銜え、足元にはすずめ蜂の大きな巣がある石鷽鳥は全国では当天満宮だけで、非常に珍しい石造物と言われています。

また、鷽は漢字の冠が学業の學と同じで「天神さまのお仕え鳥」として祀られています。
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すずめ蜂を銜えた鷽鳥
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力石
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飛梅
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靖国神社

 

 この靖国神社は昭和三十一年に筑後市初代市長下川秀樹氏と筑後市靖国神社奉賛会会長松木忠次郎氏、水田天満宮宮司宮原昌勝氏を筆頭に建築された総檜の御本殿は同年十月に竣工し、東京都千代田区九段北に鎮座する靖国神社より社名と筑後市の英霊千二百七十五柱をご分霊頂きこの靖国神社にご鎮座し建立されました。

 例年四月十日には今上天皇皇后陛下のご成婚記念日を祝し、筑後市の英霊を偲び靖国神社桜祭りを斎行し、平和の礎を築かれた英霊に心より哀悼の意を表すと共に恒久の平和を祈念するお社として参拝・崇敬されています。
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靖国神社
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境内社恋木神社
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拝殿
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本殿