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【福岡県大野城市】白垣喜八郎翁碑

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白垣喜八郎碑
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白垣喜八郎翁碑

 

 白垣翁は福岡県筑紫郡大野村大字牛頸の人、父は太作翁といふ。天保七年(1836年)正月八日を以って生れ、七歳にして父を喪ない、独り母と居る。八歳にして継父岡田六次を迎ふ。十七歳にして家産を支えられざるを以って田園を■り、居を博多に徒し継父の家を嗣ぐ。貧常に白垣家の廃絶を憂ひ、養家を異父弟久五郎に譲り■郷里に帰る。二十五歳にして田中氏を娶とり、鍛冶職を以って一家を興し、励精四十余年、生計自から植え余裕あるに至る。翁の人となり謹■■■■■性慈善を好み、貧を救け窮を■み、苟も人を利するに其力を■くすを以ってす。■人家を成し業に就く者数十人具に石橋を架け道標を建つ。遠近の者裕く其徳に感し■■翁年有志相謀り碑を建てその篤行を表さんとし、又を余に属す。その挙を讃えて辞せずして紀す。

 

【福岡県志免町】亀山石棺


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亀山石棺 志免町指定史跡

 

 この亀山八幡宮境内には、弥生時代末から古墳時代初頭に造られた「亀山石棺」があります。須恵川流域の平野と多々良川流域の平野を望む場所にあり、墳丘をもつ大型石棺墓1基のほかに石棺墓6基が確認されています。

 1号石棺と3号石棺は九州でも最大級の箱式石棺墓で、内部には朱が塗られた貴重なものです。

 

亀山石棺は、須恵川と多々良川の流域平野が望める独立丘陵上に立地し、大きな石材を用いた石棺が主体部の古墳1基と、石棺墓6基(2基は埋まっています)で構成されています。

 1号墳は、1924年発行の県文化財報告書に、既に墳丘が削られて大型石棺が露出していたという記述があり、1992年の調査で直径約13mの円墳であること、碧玉製の管玉4点や朱の塊などが発見されたことなどから、この地域の首長クラスの墓であったと考えられます。

 弥生時代終末期の糟屋地域には、亀山石棺のほかにも、大隈石棺(県史跡・粕屋町)などの大型石棺墓がいくつか分布しています。これらの貴重な文化財を、大切に後世に伝えていきたいものです。




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1号墳

 墳丘規模12・8m、高さ2mの円墳と考えられます。

 蓋石が270㎝×180㎝、内法は縦180㎝×横50㎝×高さ40㎝の日本でも最大級の大型箱式石棺墓です。

 4個の管玉が出土し、内側に朱(赤色硫化水銀)が惜しげもなく使われています。

 

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石棺群

 亀山八幡宮に見られる石棺の大きさは、大小さまざまです。大きな石棺には大人、小さな石棺には子供が入る大きさです。

 そして、全ての石棺には朱(赤色顔料)が塗られています。

 また、これらの石棺は寄り添うようにあり、葬られた人たちは親族関係にあったのではないかと考えられています。

 


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【鹿児島県曽於市】通山の六地蔵塔

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鹿児島県曽於市の通山の六地蔵


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通山の六地蔵

 

 明暦元年(1655)庚申講衆によって建てられたものである。

 塔高202㎝で、基檀に返り花、中台には蓮弁を刻出しており、笠石・龕部・中台・■身・基檀は六角形で当地方に普遍的な形である。

 龕部の正面(東向き)に「イー」があり、右回り(時計回り)に「イカイイイー」と各地蔵の種子が刻出されている。

 ■身の正面(東向き)に塔婆種子の発心門「キャカラハア」が刻出され、種子を挟んで「明暦元乙未年」と「二月四日結衆敬白」とある。また向かって右面に「依庚申功力造立之」、左面に「現世安穏後生善所」とある。

 また、正面から右回りに、修行門「キャーカーラーハーアー」・菩提門「ケンカンランバンアン」・涅槃門「キクカクラクバクアク」の塔婆種子が刻出されている。

 基檀には、■■利兵衛・脇田善吉など造立者ら十数名が刻出されているのであろうが、摩滅して判読できない。

 なお、地蔵の各種子が、どの道を表しているかは諸説があり、一定しないという。龕部六道の地蔵を種子によって刻出している例は曽於市内には一例だけで、大変貴重な史跡である。

平成三十年十一月六日、現在地に移設された。

 なお、六地蔵塔の隣には、石坂牛之介(高城の出身で、藩の役人とも、修験者ともいう)の墓があり、火の神として通山地区を見守っている。

 

明暦元年(1655)、庚申講衆によって建てられた六地蔵塔。龕部六道の地蔵を全て種子(仏尊を梵字一字で表したもの)で刻出している例は、曽於市内では非常に珍しく貴重な史跡である。通山公民館敷地内にあり。

 


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通山公民館敷地内にある

 

【鹿児島県曽於市】棚木の六地蔵塔

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鹿児島県曽於市の棚木の六地蔵


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この六地蔵塔は、享保十年(1726)に末次氏一族と湯浅氏一族によって供養塔として建立された。六面には、六道(地獄・飢餓・畜生・人界・天界・修羅)の各界を示した一体の地蔵像と他は梵字が刻まれており、この表現は都城盆地周辺では、珍しいといわれている。


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美樹食堂さん対面の道を入って左側に阿弥陀堂があり、その境内です。

 

【鹿児島県曽於市】光神の庚申六地蔵塔

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光神の庚申六地蔵

 末吉は六地蔵が5基ある此処の六地蔵もその一つであるが、他の六地蔵と異なるのは庚申六地蔵塔であることである。

 此処の庚申六地蔵はもと、財部境の田園の中に山王神社と共にあったのを、山王神社を現在の光神に遷宮する時、同時に、この六地蔵も移転したのであった。高さ1m63㎝、六地蔵、蓮台など彫刻も精密である。末吉町の頃、県文化財の候補にもなっている。

 正面に「奉修庚申講諸衆欽言」と刻し年号は寛文九年(1669)郷土と百姓と一緒になって名前を列記その終わりに「右為結衆所願成就故也」とある。この六地蔵は、六地蔵に庚申講が結びついたもので、農耕神化である。


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