【熊本県球磨郡球磨村】熊野座神社
当社は神瀬鍾乳洞内にあり昔時竜音寺、厳竜寺があったが断滅し、天正六年緒方対馬初て社壇を造営した。当社境内には有名な神瀬鍾乳洞がある大正十五年三月県より天然記念物の指定を受く。洞中に一足鳥と称せられる岩燕が群をなし年中棲息している。当社は縁結びの神として広く古来より尊崇されている。
倒木の先に進む
神瀬の石灰洞窟(熊本県指定天然記念物)
このあたりは、古生層(約5億年~2億3千5百万年前の地層)が球磨川を横切るように分布し、その中にレンズ状に、あるいは帯状に石灰岩窟がはさまれている。この洞窟は、このような石灰岩の中に開口した鍾乳洞である。
間口45m、高さ17m、奥行70mで、奥にはすり鉢状の穴があり、穴の底は水をたたえて池になっており「御池」と呼ばれている。天井には多数の鍾乳石があり最長3m、石筍はわずかに見られるが石柱はない。
天明3年(1783)にこの地を訪れた橘南谿は「西遊記」の中で、この洞窟には一足鳥と呼ばれる小鳥が数百羽住んでおり、これを捕らえると災害や疫病が流行するといって地元で大切にしているという話を記録している。この一足鳥とはイワツバメのことで、ここで越冬するので有名である。
洞窟内の神社は熊野座神社で、伊邪那美命、速玉男命、事解男命が祀られている。
石灰洞窟
岩戸不動明王について
岩戸熊野座神社の入口の此処より上方(此処から見えます)にあります。大正十三年九月に施主神照寺(球磨村神瀬)の十三世「哲厳和尚」が人吉田町「宮原十郎石工」につくらせ奉納安置(鎮座)した。
鍾乳洞と御池
本殿
神社名 | 熊野座神社 |
住所 | 熊本県球磨郡球磨村 |
TEL | |
御祭神 | 伊邪那美命、速玉男命、事解男命 |
創建年 | 1427年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 不明 |
御朱印 |
【長崎県佐世保市】無窮洞
無窮洞は、戦争中に宮国民学校の先生と子ども達によって掘られた防空壕です。岩壁に「無窮洞」と大きく彫られた下にある「工事概要」には「本工事ハ昭和十八年八月二十九日起シ、同二十年八月十五日炊事場ヲ未完成ノママ停止せり。作業ハ一切外部ノ労力ヲカラズ爆薬ヲ用ヒズ、職員生徒児童ノ手ニヨリつるはし、のみ、かなづち、くわヲ使用セリ。底面積凡七十坪内四十坪ヲ板張りトシ映画場ノ設備ヲモ施セリ・・・」と書いてあります。「無窮」とは、「きわまりのないこと」「かぎりないこと」で、日本と子供達の将来がいつまでも栄えることの願いを込めて書かれているのでしょう。当時小学生だったお年寄りの話によると、小さな体で鍬やツルハシで少しずつ掘り、先がつぶれたツルハシは学校の工事場で、鍛冶屋さん宅の児童が修理したということです。女子もホゲなどで土運びをして手伝い、全校生六百人が入れるような広い地下壕ができました。板張りの教室には石の教卓やローソク立があり、書類棚、倉庫、炊事場、トイレもあり、防空壕で生活できるよう準備されていたようです。入口は川のほうに二つあり、山へ出る非常口は通風口でもありますが、山から下のほうへ掘るものと、中から上に掘るものがつながった時は大変喜んだということです。
無窮洞は子ども達の労力で完成させたとは思えないような立派なものです。
平成六年の水不足は深刻で、無窮洞は立派な文化財なので惜しむ声もありましたが貯水池に利用されました。後に別の場所に貯水施設ができたので、平成十四年の佐世保市政百周年記念行事に、無窮洞の復元整備工事をして一般開放することになりました。
中に入って無料で見学することができます。実際に無窮洞を掘った方の解説も聞くことができます。機械を使わずに掘った生々しい戦争遺跡を見ることができますので是非。
遺跡名 | 無窮洞 |
住所 | 長崎県佐世保市城間町 |
TEL | 0956-59-2003 |
年代 | 昭和18~20年 |
指定区分 | |
駐車場 | 有 |
【宮崎県日向市】大御神社
宮崎県日向市鎮座の大御神社
神門
大御神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神 日向の国高千穂に皇孫瓊瓊杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にてこれより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を御祭りして平安を記念されたと伝えられ、後世此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
また神武天皇御東征の■、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時伊勢ヶ浜(脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山(■の山)と東に隆起する米の山(久米の山)は神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであると言う。その後当社は日知屋城主伊藤氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に崇敬され、地方の氏も「日向のお伊勢様」と呼んで崇敬し且親しんできたのである。最近ことに御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。
大御神社の社名は天照大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。現在の御社殿の改築は昭和十三年に完成し、資材は高千穂地方の神社の境内木が使用されている。
この巨石(神座)は、国家「君が代」に詠われている「さざれ石の巌」です。
今から約二千万年前、日本列島がユーラシア大陸の縁にあったとき、このあたりは広範囲にわたり浅い海岸平野でした。
そして大きな川があり、河口付近には大量の「細石」がたまって、粘土・砂などと混じり長い年月の間に固まり、巨石「さざれ石の巌」となりました。
さざれ石
この水窪周辺は今から五千年前(縄文時代)の人が龍神信仰をしていた古代遺跡です。古代の人々は、岩を渦状に刻み龍を表し底には生命の源である龍玉を納め、それを守るように山水を注ぎました。
当時の人々は龍玉を抱え守る龍神の姿に日々の安寧と守護を祈り、後々の世までも続く幸福を願ったのでしょう。
また、皇孫瓊瓊杵尊がご降臨されたおり「神座」にて絶景の大海原を眺められたと伝えられていますが、この岩上も古代祭場であることが判明しました。
龍神の霊
瓊瓊杵尊も見た大海原
拝殿
本殿
神社名 | 大御神社 |
住所 | 宮崎県日向市伊勢ヶ浜 |
TEL | 0982-52-3406 |
御祭神 | 天照大御神 |
創建年 | |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【宮崎県延岡市】春日神社
此の地は上古五ヶ瀬川の中島にありて荒瀬宮と称せり祭神四柱の大神は畏くも皇祖瓊瓊杵尊日向高千穂久志布流峰に降り給ひ其後吾田の笠沙御前に遷り給ふ時の随身英傑の神々にして古来笠沙山の麓に斎ひ祀る
今より壹千貮百五拾余年前人皇四十四代元正天皇の御宇養老二年當國守護大神大納言惟資神殿を建立し祭日を定む之即ち産土神にして春日大明神と崇め奉る
以後龍主土持公髙橋公以降有馬三浦牧野内藤の歴代藩主と共に領民の崇敬厚かりき御社なり
廃藩後明治四年社号を恒富神社と改称す降って昭和四十三年に至り古来の称春日神社に復元し現在県北に於ける尊崇深き御社なり
拝殿
本殿
神社名 | 春日神社 |
住所 | 宮崎県延岡市恒富町4丁目207 |
TEL | 0982-32-2520 |
御祭神 | 天児屋根命、武甕槌命、斎主命、姫大神外五神 |
創建年 | 718年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【佐賀県唐津市】佐用姫像
佐用姫は厳木町笹原地区の篠原の長者の娘で、たぐいまれな美人であったと伝えられています。宣化天皇二年(五三七)、朝廷の命を受けた大伴狭手彦が朝鮮半島の任那・百済救援の途中、松浦の地で軍装を解き、しばしの休養と渡海の準備をしていたときに、佐用姫を見初め、やがて夫婦の契りを結びました。狭手彦が出発する日、たとえ短い間だったとはいえ狭手彦を心から愛するようになった佐用姫は、別れが悲しくて港まで後を追いました。そして、港を離れる軍船に、姫は背中から左右の肩にかけ長く垂らした「領布」を一心不乱に振り続けました。
万葉の歌人はその情景を
海原の沖行く船を帰れとか
と歌い、愛とロマンを伝えています。厳木町は、生誕の伝承地に近いこの地に佐用姫の領布を振る姿と一途な愛にならい、「自然とロマンの風のふるさと」づくりの象徴として像を建立いたしました。