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【長崎県長崎市】長崎大神宮

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長崎県長崎市鎮座の長崎大神宮
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長崎大神宮の由緒

 「東京大神宮の流れをくむ」「親王が分霊されたお宮は長崎には別ない。創建は明治時代、長崎の伊勢神宮を崇敬する人達が日本の国柄を宜■■ために長崎に祀ると伊勢神宮は勧請明治11年(1878)に海路茂木港についた「久邇宮朝彦親王昭和天皇皇后)」の皇大神宮の御分霊を伊勢神宮大神宮伯爵三條西季知共奉の上官今「沢宣嘉長崎知事を始め官民上下」は茂木港に或いは田上へと官民そろって迎えす諏訪神社本殿に御鎮座された。本居宣長の教えをくむ国学者諏訪神社坂本秋郷宮司に熱心な信者が移御を申しが境内地百坪以上に本殿拝殿を設け立派に御鎮座されなければ許可しない、知事を始めおもなる人達相議に議り知事は奉賛会長と成り明治六年の7年後諏訪神社からお移りになられ現在に至る。長崎実地誌古賀十二郎著■に長崎大献社刊参著


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拝殿

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神社名 長崎大神宮
住所 長崎県長崎市栄町6−12
TEL 095-822-7053
御祭神  
創建年 1878年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印

【長崎県長崎市】興福寺

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長崎県長崎市興福寺

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千里眼
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順風耳
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県指定史跡 興福寺寺域

 興福寺は、元和6年(1620)創建されたわが国における最初の唐寺です。開基は江西省出身の眞圓、寺地は元欧陽氏の別荘でした。眞圓は寛永12年(1635)まで住職を務め、その後二代目には、眼鏡橋を架けたといわれる黙子如定が住職に就きました。

 承応3年(1654)三代逸然性融は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、福建省黄檗山万福寺の隠元禅師を招き、隠元を住職に推薦し、自らは監寺に下りました。明暦元年(1655)隠元が東上すると、翌2年正月から中興二代澄一道亮が住職を勤めるようになりました。

 興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっています。


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興福寺の幡と五色の吹き流し

 長崎が最も華やかだった唐船時代、海原を越えて長崎に入港した清朝の江蘇・淅江船のアチャサン達は、風頭山に立つ菩提寺興福寺に掲げられた寺の幡と五色の吹き流しを望み、無事到着を媽祖様を下らすと、この吹き流しを目印に行列を組んで興福寺に向かい媽祖様を安置したのです。

 長崎の人々は、唐寺に吹き流しが掲げられると、媽祖様の行列を心待ちにしたと伝えられます。


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県指定有形文化財 興福寺媽祖堂

 媽祖は、道教海上守護神で、天后聖母・天妃・老媽・菩薩その他の呼び名があり、特に華南地方で信仰が厚い。唐船は船毎に媽祖像を祀り、長崎滞泊中は船から揚げ降ろして、唐寺の媽祖堂に安置された。

 寛文3年(1663)長崎市中を襲った大火により、興福寺も被災した。堂内正面には、寛文10年(1670)の「海天司福主」の横領があり、大火後7年目の寛文10年には媽祖堂は整備されていたと思われる。しかし、現存する媽祖堂が、火災後の復興によって再建されたものかどうかは、諸説があって定かでない。

 現存する建物は、黄檗天井の前廊・化粧屋根裏風天井で、内外は総朱丹塗であるなど、中国の建築様式が見られるが、細部の様式は基本的に和風である。

 


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媽祖堂
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国指定重要文化財 旧唐人屋敷門

 寛永13年(1636)の出島の完成に遅れること54年、元禄2年(1689)十善寺郷御薬園跡に唐人屋敷が完成。長崎に来航した中国人の民宿を禁じて、皆ここに居住させることとした。

 唐人屋敷約3万㎡の敷地には、住宅・店舗・祀堂その他が軒を連ね一市街地を形成した。その後数度の火災があったが、天明4年(1784)の大火で関帝堂を残し他は悉く焼失、以後は中国人が自前で住宅等を建築することが許可された。この門の用材は中国特産の広葉杉で、建築様式も中国様式特有のものであり、天明大火以後の住宅門と思われる。旧唐人屋敷内に遺存していたのを、保存のため、昭和35年(1960)現位置に移築された。扉は二重で、内門は貴人来臨専用である。


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旧唐人屋敷門
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氷裂式組子の丸窓

 国指定重要文化財・大雄宝殿は明末期の純粋な中国建築様式で、その大きな特徴は黄檗天井とよばれる蛇腹型いわゆるアーチ型の天井と、正面両脇にある氷裂式組子の丸窓である。氷裂式組子は文字通り氷を砕いたような文様で大変珍しいもの。

 組子とは、釘を使わずに木を組み付ける技術のことで、細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組付けしていくものである。

創建当時は組子の裏側全面が硝子張りになっていて、陽の光に輝いて、まるでステンドグラスのような美しさだったという。しかし、第二次世界大戦時の原爆投下で興福寺の本堂である大雄宝殿も爆風で大きく傾いた。幸いに裏の石垣に支えられて助かったものの、正面の格子戸や丸窓も全て吹き飛んでしまった。戦後45年かかって現存の建物は修復がなされたが、残念ながら組子裏面の硝子を施すことは出来ず、板張りの状態で修繕を終えた。

 明末期を代表する建築様式である氷裂式組子は、現在の中国でもこれだけ大きく功績なものはもはや残っていないという。
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氷裂式組子の丸窓
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闕魚

 正式の名称は飯梆僧達の飯時を告げるために叩く板の魚です。この魚板は全国の禅寺にあるものの中の最優秀作といわれます。闕魚は揚子江にいるまぼろしの魚といわれています。この魚板が雄左奥のが雌でこのように雌雄一対でかかっているのは珍しく、また何百年もの間叩かれたのであの様に腹部が凹んでおります。叩くとコーンコーンと案外遠方まできこえます。


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闕魚
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興福寺三江会所門
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豚返しの敷居

放し飼いの豚が門内に入らないように、敷居が高くなっています。人が通るときには、二段式の上部が取り外してきます。


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県指定有形文化財 興福寺三江会所門

 江南(現在の江蘇省及び安徽省上海市)・浙江・江西3省のいわゆる三江の出身者が明治11年(1878)三江会を設立し、事務所を当寺内に置いた。明治13年(1880)、その集会所として三江会所が建てられた。昭和20年(1945)原爆で大破し、現在はその門だけが遺存する。中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物。外面は門扉を中心に左右に丸扉を配し、他は白壁、門扉上部の棟瓦を他よりも一段高くした簡素清明な意匠である。大雄宝殿再建と同じ中国工匠の手によると思われ、肘木・虹梁・彫物・高い敷居など細部に中国式の手法が窺える。


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興福寺の由来

 黄檗宗東明山興福寺は、元和6年(1620年)唐僧、真円によって創立されました。

2代唐僧、黙子如定は眼鏡橋の架設の指導者として知られ、3代唐僧、逸然は唐絵を広めた近世漢画の祖と言われています。

 いんげん豆で有名な隠元禅師は、承応3年(1654年)に中国福建省から長崎に来て興福寺に入山し、のちに京都府宇治に黄檗萬福寺を建てて、日本の黄檗宗の宗祖となりました。興福寺は、長崎の唐寺の中で一番早く建てられた寺で、通称「赤寺」と呼ばれており、寺内のほとんどが文化財に指定されています。

※国指定重要文化財

大雄宝殿(本堂)・旧唐人屋敷門

※県指定有形文化財

山門・鐘鼓楼・三江会所門・長崎聖堂・媽祖堂・境内全域(史跡)


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国指定重要文化財 興福寺本堂(大雄宝殿)

 中国江西省の劉覚が元和6年(1620)頃長崎に渡来、僧となり真圓と称してこの地に小庵を営んだ。南京地方出身の在留唐人が寺の創立を図り、媽祖堂・仏殿を建てて真圓を開基とした。寛永9年(1632)唐僧黙子如定が渡来、2代住持となり寺観大いに整い、更に承応3年(1654)唐僧隠元隆■を迎え、外堂・山門等一段と整った。元禄2年(1689)に再建された大雄宝殿が、慶應元年(1865)の暴風で大破したため、明治16年(1883)再建されて現在に至る。中国工匠の手による純粋の中国建築で、巧緻な彫刻・華麗な彩色・氷裂式組子の丸窓が珍しい。


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本堂

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寺名 興福寺
住所 長崎県長崎市寺町4−32
TEL 095-822-1076
本尊  
創建年 1620年
駐車場
備考  

【長崎県長崎市】若宮稲荷神社

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長崎県長崎市鎮座の若宮稲荷神社
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方形の鳥居

鳥居の柱が方形で作られた珍しい鳥居。旧長崎奉行内の稲荷社に文政三年(1822)に長崎奉行土方出雲守が奉納し、明治三十二年(1899)に当神社に移される。


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方形の鳥居
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坂本龍馬と若宮稲荷神社

 若宮稲荷神社は「勤皇稲荷」とも呼ばれています。これは、当稲荷が南北朝の武将・楠木正成(1336没)の守護神であったことにちなみ、幕末に来崎した諸藩の志士が多く参詣したためと言われています。

 幕末当時、頼山陽の『日本外史』等の影響により、楠木正成の人気が高まり、勤皇の志士たちの厚い尊敬を集めていました。

 坂本龍馬(1835~1867)も正成を崇拝していたらしく、正成の最期の地である神戸・湊川では「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。また、今も残る写真には、正成所持の刀を模して作らせたと言われる脇差を、腰に差した姿でおさまっています。

 若宮稲荷神社は、龍馬の創設した亀山社中や、盟友・佐々木三四郎と会飲した料亭・藤屋にも近いことから、たびたび参詣して、日本の維新回天が一日も早く成就する事を祈っていたのではないでしょうか


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坂本龍馬之像
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御由来

「古いお宮を若宮」と親しまれている当神社は、その昔南北朝時代の忠臣楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)に現社地に奉斎したと伝えられる。鎮座以来三百有余年の歴史の中、特に元文元年(1736)に長崎奉行細井因幡守安明が参道を開削し社殿を改築し敬神の誠を捧げられたのを初めとして、代々の奉行は固より世の多くの人々の崇敬をあつめ今日に至っている。また明治維新前後には当社を勤皇稲荷と称し、坂本龍馬をはじめ長崎に来住する志士等の多くが当社にたびたび参拝し、日本の新しい夜明けが一日も早く来ることを祈願したと云う。又、境内には坂本龍馬之像が建立されている。

 

竹ン芸(国無形文化財

 毎年十月十四日、十五日の例大祭に奉納されるもので、白狐(雄狐、雌狐)に扮した若者が十数米の青竹(男竹、女竹)の上で竹ン芸囃子に合わせて種々の妙技を演ず郷土民芸。その起源は中国伝来の羅漢踊といわれている。

 

方形の鳥居

 鳥居の柱が方形で作られた珍しい鳥居。旧長崎奉行所内(現長崎歴史文化博物館)の稲荷社に文政五年(1821)に長崎奉行土方出雲守が奉納し、明治三十二年(1899)に当神社に移される。

 

史跡

 神社周辺には、青華白磁の名陶として有名な亀山焼(1805~1867)の窯跡、坂本龍馬ゆかりの亀山社中跡、亦わが国西洋料理発祥の良林亭跡があり往時が偲ばれる。


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拝殿
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本殿

 

神社名 若宮稲荷神社
住所 長崎県長崎市伊良林2丁目10−2
TEL 095-822-5270
御祭神 稲荷大神
創建年 1673年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【長崎県長崎市】亀山社中跡

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長崎県長崎市鎮座の亀山社中

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近藤長次郎<1838~1866 高知県生まれ>

 幼い頃から学問・武術を好み、江戸にも遊学して高島秋帆からも砲術を学びました。勝海舟に入門し神戸海軍操練所でも修行を続け、慶應元年(1865)の亀山社中結成に参加し、「龍馬の片腕」と呼ばれました。この年、薩摩藩の名義を借りた、長州藩のための軍艦・武器購入の計画が起こると、中心的役割を果たしました。しかし、慶應2年(1866)英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根邸内で切腹しました。のちにそれを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と妻・お龍に語っています。近藤の墓は、現在でも長崎市寺町の晧台寺に残されています。


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陸奥宗光<1844~1897 和歌山県生まれ>

 明治の外交官、政治家。文久3年(1863)勝海舟に入門。神戸海軍操練所に学び、坂本龍馬と交友を深めました。その後、亀山社中海援隊と、終始龍馬と行動を共にしました。龍馬は陸奥宗光の才能を高く評価し、「大小の刀を取り上げても路頭に迷わないのは、僕と君のみ」と語っています。また、陸奥宗光は長崎で外国人の家庭に住み込み、英語を学んだとも伝わっています。明治以後は政府に入り、農商務大臣・枢密顧問官をつとめ、明治25年(1892)外務大臣となり条約改正と日清戦争の外交指導に尽力しました。


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長岡謙吉<1834~1872 高知県生まれ>

 大阪で医術を学んだほか、長崎でも修行し、安政6年(1859)に再来日したシーボルトに師事したとも伝わっています。その後脱藩して、坂本龍馬と再会。亀山社中海援隊と行動を共にしました。学術に秀でた長岡謙吉は、龍馬の秘書役、海援隊の文司として活躍し、慶應3年(1867)の「船中八策」や「大政奉還建白書」の作成に携わりました。龍馬の死後、慶應4年(1868)には土佐藩から海援隊長に任命されました。明治以後は、政府に入り活躍しました


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中島信行<1846~1899 高知県生まれ>

 明治の政治家。元治元年(1864)脱藩し、のちに亀山社中海援隊に参加しました。龍馬の信頼が厚く、慶應3年(1867)に起こった「いろは丸事件」の損害賠償金問題では、紀州藩との交渉と賠償金の受け取りにあたりました。また、慶應3年(1867)9月、龍馬が土佐に最後に帰郷したときにも同行しています。明治以降は政府に入り、神奈川県令や元老院議官、(初代)衆議院議長、イタリア駐在特命全権公使等をつとめました。


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坂本龍馬
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船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね「長崎はわしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。「やがては日本回天の足場になる」ともいった。

司馬遼太郎竜馬がゆく」より


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龍馬のぶーつ像

 幕末の風雲児・坂本龍馬は、日本で最初にブーツを履いたといわれています。

 身分制度が厳しい中、下級武士である郷土の家に生まれ、草履しか履けなかった龍馬は、自由と希望の地・長崎で「ぶーつ」を履き、新しい時代へと駆け抜けました。

 この「龍馬のぶーつ像」は、亀山社中創設百三十周年記念事業の一環として建立。全国でも珍しい体験型のモニュメントで、実際にぶーつの中に足をいれ、舵を握ることができます。ぜひ、龍馬の気分でお試しください。


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龍馬のぶーつ像
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亀山社中跡から望む長崎市

 

遺跡名 亀山社中
住所 長崎県長崎市伊良林2丁目7−24
TEL  
年代 幕末期
指定区分  
駐車場  

【長崎県長崎市】亀山焼窯跡

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長崎県長崎市の亀山焼窯跡
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亀山焼窯跡について

 亀山焼窯跡は文化四年(1807年)大神甚五平外三名がオランダ人に売る水瓶製造の窯を築き陶器を焼いたことに始まり、文化十一年(1814年)白磁染付を焼くことに成功しました。絵付は南画家木下逸雲など有名文人墨客のものも多く数々の名品を遺しましたが次第に衰微し慶應元年(1865年)廃窯となりました。

 今では幻の亀山焼とも言われ美しい南画風の絵柄ともあいまって愛好家達を魅了しています。

 ここに窯の奥壁の一部が現存していますので、この貴重な遺跡を末永く保存し後世に伝えましょう。


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亀山焼登窯復元想像図

 

遺跡名 亀山焼窯跡
住所 長崎県長崎市伊良林2丁目15
TEL  
年代 1807~1865年
指定区分  
駐車場  

【長崎県長崎市】伊勢宮

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長崎県長崎市鎮座の伊勢宮
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伊勢宮略歴

 當伊勢宮は今を去る三百六十余年前の寛永六年に天台宗修験南岳院存祐と云う人が長崎の繁栄天下泰平諸人安全祈願の為に外宮長官檜垣常晨の許状を得て今の地に内宮を鎮座奉斎し後、寛永十六年に幕府及伊勢神宮に請ふて外宮太神宮を併せ鎮座奉祀して此の年に長崎奉行を始め市民一般の寄付に依り宮殿が建てられ伊勢宮と称せられるやうになったのであります。其の後、三百五十年前の正保三年の御営繕より長崎總町各戸よりの寄進が永制となり當宮は御創建の初めより長崎市民皆様に依って建立営繕せられ今日に至って居る神社であります。


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高麗橋と伊勢宮

 写真は、高麗橋左岸から伊勢宮をみたものです。高麗橋は、当初、承応元年(1652)に長崎在住の中国人によって架けられました。その後、麹屋町の商人が私財を投じて造り替え、大正4年(1915)には上流側が鉄筋コンクリートで拡幅されました。再架された高麗橋(市指定有形文化財)は、西山ダム下の公園内に移築復元されています。奥に見える伊勢宮は、諏訪神社・松森神社とともに長崎三社の一つです。明治34年(1901)に同社で行われた神前結婚式は長崎における神前結婚式の始まりといわれています。本殿には紀貫之らが詠んだ36人の歌と肖像絵が描かれた「三十六歌仙絵」が飾られています。


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高麗橋
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拝殿
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本殿

 

神社名 伊勢宮
住所 長崎県長崎市伊勢町2−14
TEL 095-823-2665
御祭神 天照大御神豊受姫大神素戔嗚尊
創建年 1639年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【長崎県長崎市】宮地獄八幡神社

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長崎県長崎市鎮座の宮地嶽八幡神社
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 八幡町の陶器で出来た鳥居で有名な神社。寛永二十年(1643)、天台宗の大覚院存性坊という修験僧が高麗町(今の八幡町)に大覚院を創建、正保三年(1646)に山城国から本社八幡宮を勧請して院内に祀ったのが起源。

 承応二年(1653)に社殿が創建されて以来、市民は八幡町の八幡様として親しみ参拝者が多かった。元禄六年(1693)、二代良宝院存慶は寺号を白鳩山南岳院大覚寺と改め、宝永元年(1704)、黄檗宗に転向したため、単一の黄檗宗下の大覚寺となった。

 しかし、八幡神社は従来のまま境内に安置され、宝永五年(1708)に改修、正徳五年(1715)修繕、元文五年(1740)再建されている。明治維新の際、八幡神社と改称、住職は神官となった。

 明治十一年(1878)福岡県宗像郡津屋崎の宮地嶽神社を勧請して以後、この名が

通称されるようになったが、鳥居の額には「八幡」「宮地嶽」が併記してある。

 明治二十一年(1888)に白地に呉須染付の陶製の大鳥居が奉納された。この鳥居は有田の香蘭社制作によるもので、陶器の鳥居は全国でも有田の陶山神社、佐賀の松原神社、愛知県の瀬戸神社に見るくらいで珍しい。昭和三年(1928)に初めて神幸式を行い御神輿を銭屋川の清水で清め遷宮祭を行った。


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由緒

 当社は承応二年、修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し、この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまる。宝永元年(1704年)大覚院が黄檗宗に属したことより唐船の人達にも当社は尊崇され毎年多額の寄進が唐船よりよせられた。

 明治元年(1868年)神仏混合廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現代に至っている。

 相殿の宮地嶽神社は明治十一年(1878年)福岡県宗像郡宮地嶽神社の分霊が奉祠されたものである。

 なお、当社の所在地である八幡町の町名は、延宝八年(1680年)この地区の町名が新たに名づけられたとき当社の祭神に因んで八幡町の町名が定められている。


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登録有形文化財 宮地嶽八幡神社陶器製鳥居

 この鳥居は、明治21年に有田磁器窯による大型細工でつくられた鳥居である。親柱部分に残る銘によって製造人が岩尾久吉、角物細工人が金ヶ江長作、丸物細工人峰熊一であることが判明する。

 有田に製作者が同一のものがひとつあるが、他に類例がない稀少な存在として平成8年10月に新しく文化庁が導入した文化財登録制度により、県内で初めて登録された。


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陶器製鳥居
f:id:rekiken9:20190827211730j:image拝殿

神社名 宮地嶽八幡神社
住所 長崎県長崎市八幡町8
TEL  
御祭神 応神天皇神功皇后
創建年 1653年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印