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歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【佐賀県小城市】須賀神社

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佐賀県小城市鎮座の須賀神社
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太閤腰掛石

豊臣秀吉 文禄の役の際(文禄元年)西暦1592年、茶を片手に憩の場所として休まれた石


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千葉城

須賀神社

 南北朝、室町、戦国時代に小城郡佐賀郡杵島郡の三郡一帯に勢力をふるった千葉氏の山城跡です。千葉氏がこの城を築いたのがいつ頃だったのかはっきりしませんが、史書には千葉大隅守胤貞という人物が正和五年(1316)はじめて下総国(千葉県)より下向し、晴気に居住し、それとともに千葉城をつくったとしています。その時、祇園社を勧請したため牛頭城、祇園城の名称があります。城跡は右手の一番高い山の上にあり、この山を城山と呼んでいます。千葉氏は東千葉、西千葉の両家にわかれ、争って衰退し、戦国大名龍造寺隆信に服属してきました。

 祇園社は今日須賀社と称していますが、ここの山挽社事は千葉氏がはじめた由緒のある行事です。なお、城跡の中腹には千葉城跡碑や明治天皇御製碑があります。
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須賀神社(旧祇園社)由来

 当神社は桓武天皇延暦二十二年(803)の創建と言われ、当初は「清祠」と称し、肥前国佐賀・杵島・小城三郡の宗廟神社として栄えたと、古記にある。

 後に肥前国の地頭職であった千葉大隅守平胤貞は正和五年(1316)鎌倉幕府の命により、九州下向の際、京都祇園社。現在の八坂神社の御分霊を勧請し、千葉氏の守護神として、代々の城主は懇ろに奉斎した。祭神は尚武・愛情・病災消除・農商工業の神として御神徳を有して居られ、古来より近郷近在の人々の深い信仰を集めている。

 明治三年(1870)社号を須賀神社と改め、大正十三年(1924)には旧県社に列せられ、今日に及んでいる。遠くには雲仙・阿蘇の噴煙を望見し、眼下には清流の祇園川が流れ、源氏蛍の飛び交う風情はまさに一幅の絵である。

 とりわけ、祭の圧巻は、鎌倉時代より延々と引き継がれた勇壮な山挽行事で、古色蒼然として、素朴な時代色を有し、現在もなお氏子・崇敬者の心を捉えている。


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肥前鳥居
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拝殿前から望む小城市
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拝殿
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本殿

 

神社名 須賀神社
住所 佐賀県小城市小城町松尾3594
TEL 0952-72-7115
御祭神 建速須佐之男命、櫛稲田姫大神
創建年 803年
社格 県社
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【佐賀県佐賀市】堀江神社

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佐賀県佐賀市鎮座の堀江神社
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堀江神社 肥前鳥居

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堀江神社神像群

 この神像には、一国一社の国名神号が墨書されている。これは蒙古襲来のとき、後宇田帝が祈願のため納めたものと伝えられている。神像はすべて一木彫で、中世のころの作と推定され、三つの神像を除き顔面のみを現し、体部は円筒形に彫った素朴な彫像である。像高20~25センチで67体が保存され、極めて稀な遺品であり歴史的価値が高い。


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熊襲討伐のため肥前に来た日本武尊の威徳をしのんで土地の人が小祠を建て堀江大明神と称えたのが起源で景行天皇神功皇后主祭神で外に後宇多帝が蒙古退治を祈願されたとき勧請の風浪権現即ち住吉三神をあわせ祀ってある。神功皇后御皇運を祈らせ給いて当社広前に緑竹一本を植え給いて「千早振神袁此野仁集置天一村竹袁宿登定留千早振神裳此野仁集利■一村竹袁宿登定奴」御歌を■げ天神地祇を祭らせ給いけるに其竹緑をまし新■を生じたりと伝う。それにより御歌に因みて此野村と名づけ後国音相通ずるを以て神野に改む

祭神天照皇大神外八柱は無格社合祀により追加する

 

神社名 堀江神社
住所 佐賀県佐賀市神野西2丁目2−8
TEL 0952-30-6219
御祭神 景行天皇神功皇后、上筒男神、中筒男神、底筒男神天照大御神応神天皇大山祇命倉稲魂命菅原道真、若比留女命、建御方命、大己貴命、木花咲邪姫命
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【佐賀県佐賀市】伊勢神社

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佐賀県佐賀市鎮座の伊勢神社
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伊勢神社の石造肥前鳥居及び肥前狛犬

石造肥前鳥居の特徴は、笠木・島木・貫・柱が、通常2~3本の継材で形成されており、笠木と島木が一体化して木鼻は流線形になっている。さらに、柱の上端の笠木・島木を支える部分には、台輪が必ずつけられており、楔は使われていない。

 慶長12年(1607)の造立銘があるこの鳥居は、造立年代の古いものの一つとして価値が高い。

 石造肥前狛犬は、一般に小形で、姿勢は静的であり、又、その彫法は簡潔で素朴なものである。

 在銘のものは少ないが、寛文7年(1667)の造立銘があるこの狛犬は、市内で最も古い作として注目すべき価値がある。


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河津桜
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拝殿
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本殿

 

神社名 伊勢神社
住所 佐賀県佐賀市伊勢町9−8
TEL  
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【佐賀県佐賀市】佐賀県護国神社

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佐賀県佐賀市鎮座の佐賀県護国神社
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拝殿
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本殿

 

神社名 佐賀県護国神社
住所  佐賀県佐賀市川原町8−15
TEL 0952-23-3593
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【佐賀県佐賀市】豊増家武家屋敷の門

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武家屋敷の門 1棟

 豊増家(旧鍋島監物屋敷)の門は、潜戸付長屋門である。正面向かって左側に二階建の番所があり、右側には籠を納める倉庫があって、屋根は本瓦葺入母屋造り、外壁は漆喰塗り、腰は簓子下見板張り、番所の二階正面には出格子窓が設けられている。門扉には両開き板唐戸で、扉の釣元に入八双金具、閂の金具隠しに饅頭金物が装飾されている。

 規模は間口12.7m、奥行3.9mで、建築年代は明らかではないが、江戸時代の様式をとどめた武家屋敷の長屋門として、当時を物語る貴重な遺構である。


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武家屋敷の門

 

遺跡名 豊増家武家屋敷の門
住所 佐賀県佐賀市八幡小路
TEL  
年代  
指定区分 市指定重要文化財
駐車場  

【長崎県長崎市】山王神社

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長崎県長崎市鎮座の山王神社
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被爆した鳥居

 この鳥居は1924年大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく烈により、一方の柱をもぎ取られてしまった。ここは爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射熱線によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。

 ただ一個の原子爆弾によって、当地区もまた、ことごとく灰燼と帰したが、この鳥居は強烈な爆風に耐え、あの日の惨禍を語りつぐかのように、いまなお一方の柱で建ち続けている。しかし、その後長い年月を経たため、安全性を考慮して柱の基礎部分や接合部分の補強工事を行った。長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願ってこの銘板を設置する。


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山王神社二の鳥居の吹き飛ばされた左半分

 ここに横たわるのは、1924(大正13)年に建立された山王神社二の鳥居の、吹き飛ばされた左半分です。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居までありましたが、1945(昭和20)年8月9日の原爆投下により、爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとは倒壊しました。一の鳥居はほぼ原形のまま、また、二の鳥居は、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの、奇跡的に右半分だけ残りました。

 しかし、戦後、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、現在も当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなりました。
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吹き飛ばされた二の鳥居
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坂本町原子爆弾殉難之碑のご案内

 町内会長をしていたので翌日町内のようすを見て回った。さんさんと照りつける真夏の太陽の下にあちこちの畑一杯にあるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。意識のある者はすべて泣いて救いを求めた。780余人の総人口のうち200人ぐらいは負傷はしていてもまだ生きていたし、達者な者も150人以上はいたのだが、それから10日ぐらい経ったころにはばたばたと死んで行き完全に生き残った者はわずか20人ぐらいに過ぎなかった。町内175世帯中家族そろって完全に生き残ったのは山王神社の■本氏の一家族だけである。その日朝八時頃の空襲で町内の防空壕奥深くに入り、そのまま壕内に遊んでいて赤ん坊に至る迄完全に助かったというのである。

 右の文は被爆当時、町内会長だった久保忠八さん(昭和四十七年没)の手記「原爆記」(長崎原爆戦災誌に収録)の中から抜粋したものです。久保さんは昭和二十年八月九日、浦上に原爆が投下された当日、仕事で県外に出張していて難をのがれた数少ない体験者です。二日後の十一日、帰宅して目にしたのは一面の焼け野原。ご自身も妻子五人を亡くしました。その惨状を知る生き証人でもありました。昭和二十七年、被爆倒壊した山王神社の鳥居の足柱をゆずり受け、町民手づくりで碑を建立。以後、毎年、八月九日に慰霊祭を催して、犠牲となられた多くの地域住民に哀悼の誠を捧げ、世界の恒久平和を祈念しています。なお、碑は平成十八年九月の台風で折れた楠の大枝が覆いかぶさり倒れましたが、住民の募金で復元。この地、山王からの祈りを今日に継承しています。


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山王神社 御案内

当神社は、島原の乱後、時の徳川幕府老中松平伊豆守信綱が此の地を通過せし際、近江の国琵琶湖岸の坂本に風景・地名共に酷似しているとて、かの地の山王日枝の山王権現を招祭してはとの進言により、長崎奉行・代官は寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社建立に着手した。当時は、神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」と称して運営された。

以後、幾度かの盛衰がありたるも地域の氏子の方々に守られて明治維新を迎え神仏分離令により、元来の神社に戻り「山王日吉神社」と改称し浦上地方の郷社となる。又明治元年、山里地区に皇大神宮が祭られたるも台風等の被害にて損壊し、再建や以後の運営も困難となり廃社を検討されるを知り氏子は山王社との合祭を願出て許可となり、明治十七年一月遷宮し以後「県社 浦上皇大神宮」と称したるも地域では「山王さん」として親しまれ、又、「浦上くんち」として大いに賑わってきた。不幸にも昭和二十年の原爆の惨禍に直面し壊滅状態となりたるも数年を得ずして苦境の中から復興の声が上がり、昭和二十四年より祭典を復活し、以後社殿境内等も次第に復活された。

昭和六十三年(1988)神社創建より、三百五十年の記念すべき年に弊殿も再建して、ほぼ旧来の姿に近く再建し得た。原爆時の遺物としては、現在は世界的にも有名となった。参道の「石製片足鳥居」と境内入口にそびえる「楠の巨木」等が残り原爆の悲惨さと平和の有難さ等を無言の内に語り掛けてくれる。又、楠木は戦後の数年で発芽、次第に繁茂し現在の雄姿となり地域の人々に戦後の復興の意欲と活力を与えてくれた。


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この石の由来について

 この石は、平成18年(2006年)山王神社被爆楠の木の二度目の治療の時に、右側の木の空洞の中から取り出されたものです。(爆風 秒速220m、熱2000度)その証として無数の石が、右側の木の中から発見されました。

 この木の3m上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって爆風により石が舞い上がり、小石が穴の中に入ったものと考えられます。

 常識では考えられないような大きな力が加わった原子爆弾の威力を物語っています。

 神社に向かって左側の楠の木は爆心地に近く、主幹は途中で折れています。そのうえ、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていた為、治療の時その破片を取り除くのには困難を極めました。


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山王神社の大クス

この2本のクスノキは、胸高幹囲がそれぞれ8mと6mで、市内にあるクスノキの巨樹の一つである。ともに昭和20年の原爆で主幹の上部が折れたため、樹高は10m内外であるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40m、南北25mの大樹冠を形成している。

 原爆の影響で一時落葉し枯木同然であったが、次第に樹勢を盛り返し今日に至っている。
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クスノキ
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拝殿
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本殿

 

神社名 山王神社
住所 長崎県長崎市坂本2丁目6−56
TEL 095-844-1415
御祭神 天照大御神、豊受比買神、大山咋神大物主神。、伊邪那岐神伊邪那美神高皇産霊神神皇産霊神天御中主神大年神経津主神、健瓶槌神、御代御代皇御孫命
創建年  
社格 郷社
建築様式  
駐車場  
御朱印  

 

【長崎県長崎市】淵神社

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長崎県長崎市鎮座の淵神社
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淵神社

 爆心地から南南西へ約1700mの距離にあった淵神社は、宝珠山の山腹にまわりを樹木に取り囲まれて建っていた。

 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂により、社殿は爆風で倒壊し、境内に巡らされた玉垣社務所脇の一部を残して倒壊した。残った玉垣も根本から内側に大きく傾いていた。椎の大樹も根本から倒れ、周囲の山林は反対方向になぎ倒されて、枝葉はくすぼり焼けて赤茶けていた。

 また、境内や一帯の山林は、被爆した付近の人たちや工場での負傷者が押し寄せ、避難所の様相を呈していた。

 長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願ってこの銘板を設置する。


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拝殿
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本殿

 

神社名 淵神社
住所 長崎県長崎市淵町8−1
TEL 095-861-0836
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印