【鹿児島県曽於市】田の神
田之神
南九州は日本列島の南の辺境に位置し、火山活動や台風常襲と厳しい自然環境にあります。
更に、島津藩政七百年は人々の生活を自足的閉鎖的にしましたが、逆に琉球や大陸との交流という南の門戸としての先進性も内包し、又厳しい条件を克服する強い自立性も培いました。
このような中で、島津藩領内は独特の文化を育み、十八世紀初頭にはこの藩だけに特有の「田ノ神像」を造りあげました。
田ノ神サアーこれは江戸時代、我々の先祖が豊作を祈り、生活の安定を願う神の‘結晶‘そしてオブジェ、あるいはモニュメントとして置いたものと思われます。町内には、三十四体が確認されており、それぞれに像容も異なり稲の作具合を見守っているようです。
田の神サアーの看板が目印!ここから歩いていく
堂園公民館や納骨堂の近く!看板を見つければ大丈夫
遺跡名 | 堂園の田の神 |
住所 | 鹿児島県曽於市末吉町深川 |
TEL | |
年代 | 江戸時代 |
指定区分 | |
駐車場 | 無 |
【鹿児島県曽於市】熊野神社
都城島津家の富山野辺古文書に「有五宮御召謁大隅国深川院御下向之間奉隠量之元弘三年四月二十九日挙義兵打平凶徒等累」とあり、五辻宮が元弘三年四月当神社境内の深河院に下向の際、優諚を賜った。野辺盛忠が恐懼同院に隠し奉ったという史実がある。
当初建立の際の棟札の写しに、薩摩守小野朝臣忠久、同地頭代伊賀守宇治忠英の名がみえる。近くの宝寿庵城には、島津九代忠国公、十一代忠昌公、十五代貴久公の居館が造られ、歴代の島津氏の信仰厚く広く崇敬された。
深川院
末吉は昔、深川院といった。院というのは役所のこと倉庫の事務を執る所で租税としての穀物などを収納していた。末吉ではその倉庫が、この地にあったと伝えられ、やがて深川院が末吉の名になっていった。深川院は島津荘に属していた。
南北朝時代、櫛間領主・野辺盛忠は深川院まで領知していたが、元弘三年四月(1333)この深川院に五辻宮守良親王を奉じて義兵を挙げた。
当時、野辺氏の代官として深川氏がこの地を治めた。熊野神社境内の五輪塔は深川氏の祖先の墓と伝えられる。溝辺氏の前の方に深川家の屋敷跡と氏神がある。深川氏の子孫は現在都城市に居るこの地は毎年1月7日鬼追いの行事が行われていることは有名である。
神社の参道に仁王像が二基ある。これは光明寺にあった仁王像で廃仏毀釈のとき土中に埋められたのを堀り出したので損傷が少ない。大体、室町時代と推定される。
熊野神社の鬼追い
毎年正月七日の夜、深川の熊野神社で行われる鬼追い行事は、奇習として伝承されている。
御幣に身をまとった三匹の鬼(男鬼・女鬼・小鬼)が樫棒をもった二人の付けと組になって荒々しく鬼堂を飛び出し、石段を駆け下って凍り付く夕闇の中、一目散に光明寺仁王像の所に走り、御神酒をいただくや、周辺の観衆との喧騒と化す。
観衆は鬼のなびかせる御幣をちぎろうと鬼に近づく。鬼は鬼の手と付けの樫棒で容赦なく打ち暴れる。古来より鬼風に吹かるれば心身健全なりと鬼は疲れると鬼堂に帰り善男善女には煎豆が配られ祭りは終わる。
この夕闇の中で繰り広げられる異様な光景について民俗学的視点から注目されている。一つは、鬼追いはもとは光明寺の修正会に伴う仏教行事が廃寺後熊野神社主宰となったと考えられる。二つは、本来追われる鬼が鬼追いの鬼は招福除災の性格をもっている。
深川の鬼は、新春を寿ぐ神の性質を残し、まさに鬼神であろう。
深川院の五輪塔
深川院は平安時代末期に始まるといわれる。南北朝時代(1340年ごろ)櫛間院(串間市)及び深川院の地頭野辺久盛の二男美作守盛政がこの地の代官となり地名をとって深川氏を名乗った。
深川氏代々の館跡は東300m(現在溝辺氏宅前)の所に氏神堂が残っていたがこの辺り一帯に広大な屋敷があったといわれる。五輪塔は古くから深川氏の先祖墓と伝えられている。
宝暦九年、宝暦九年、安永7年(左から)
【鹿児島県曽於市】興昌寺跡
鹿児島県曾於市の興昌寺跡
興昌寺跡
この地は、かつて興昌寺(本府福昌寺の末、曹洞宗)のあった所で、明治二年頃の廃仏毀釈によって廃寺になった。
興昌寺墓地には、鎌倉時代末期の五輪塔二基(正中三年・1326の銘あり)をはじめ、末吉郷初代地頭村田雅楽介の墓(慶長年間墓標杉樹朽株現在無し)、薩藩の学者愛甲喜春の弟子白尾桃庵(等庵)の墓(享保二年、1717没)明治初頭常備隊小隊長で学者であった矢上恭介の墓(明治26年、1893没)興昌寺にあった。
仁王像二体(宝暦九年、1759、造立、施主の名を刻す)その他、末吉郷士諸家の墓、興昌寺関係の墓など往年の興昌寺をしのばせると共に文化財として重要なものが多かった。
昭和49年3月、この地は農村地域工業導入促進のため、末吉町土地開発公社によって工業用地を造成15mの丘陵を地ならししたので由緒ある造物、文化財をこの場所に集めて顕彰することにした。
1759年造立の仁王像
興昌寺五輪塔
興昌寺開基の僧月舟と妻の墓という。正中三(1326)年の建立で、五輪塔の地輪部に「法名妙蓮藤原氏 正中三年卯月廿八日」の刻字がある。曽於市指定文化財
村田雅楽助の墓
慶長期、末吉郷初代地頭である村田雅楽助経宜の墓。入道名は寿仙。島津義久や義弘に仕えた。文化人でもあり、住吉神社へ多くの和歌を奉納している。元々、墓標は杉であったという。曽於市指定文化財
村田雅楽助は末吉外城(郷)建設の時、初代地頭であった人、夫妻の墓標に杉樹を植えたが今は古株が残っている。
白尾桃庵の墓
白尾桃庵は学者(儒学)で、志布志の愛甲喜春の弟子である。末吉郷で若者の教育にあたった。享保二(1717)年八月に死去。墓石には等庵とある。曽於市指定文化財。
矢上恭介の墓
矢上恭介(天保八年十一月二十八日生)は学者で、有馬厚軒の助講を務め、多くの子弟を教育した。明治二年常備隊小隊長、同十九年恒吉郷の戸長も務めた。
文化十二年、元禄二年、元文五年(左から順に造立年)
【鹿児島県志布志市】松山神社
鹿児島曽於市の松山神社
松山神社由来
この地は松山神社の跡地であり、享保二年当地に遷宮され爾来二百六十有余年鎮座ましましたが、地域開発のため松尾城跡に遷宮されたものであります。
この神社敷地は、大杉をはじめ、大木の繁茂せる荘厳な鎮守の森でありましたが、松尾川・河川改修を機会に松山町の象徴としての役場庁舎を建設用地に同神社敷地817坪を宅地として造成し、明治百年・町制施行十周年を記念して昭和四十三・四十四年度継続事業により、役場庁舎を新築したものであります。
よって由緒あるこの地を永久に顕彰するため、この碑を建立したものであります。
西南の役従軍記念碑がありますが、階段が崩れてて行けませんでした
松山神社は、正八幡と言い、八幡城にあったのを、享禄二年(1528)二月二日、藩主島津貴久の代に山下の地に遷祀した。
(注)この御柱は前記(1528)以前建立(創建)の当神社遺跡より発掘されしものである
【福岡県嘉麻市】山野の庚申塔
六十一日目に回ってくる庚申の日の晩に、組内の人びとが集って徹夜する風習がある。これを庚申信仰といい、無病息災・延命長寿・五穀豊穣を祈っての行事である。ここの石塔群は、昔は村の出入口や三差路に立てられていた。道の分岐点や交差点は、災いが集まる所と信じられ、そういう所や村の出入口に立てて、災いが村に及ぶことを防ごうとしたのである。この神を塞神といい、庚申信仰と結びついて庶民の間に広がった。猿田彦大神は道案内の神とされるが、道祖神として塞神や庚申信仰と結びつき、嘉穂地方での造塔は元禄の(1700年)頃から始まり、庚申塔の主流になった。庚申塔造立には種々のきっかけがあろうが、庚申の会を十八回終えると、満願成就として立てられることもあった。ここに並んでいるのは、明治年間、政府の政策によって神社などに集められたものであるが、庚申塔は江戸時代以降の庶民信仰を証明する貴重な文化財である。なお、ここの石塔は他地に比べて大きい。
【福岡県嘉麻市】稲築八幡宮
神功皇后、軍を大分にて解き給ひ、漆生産神の境内にて御休憩ありし時、里人、稲を敷きて御座を勧め奉れり神の降跡たる秀麗なる山なれども、時すぎ、世隔たりければ汚穢の塵に交わりたらん事を、いといて頂き七尺をうかち、其所に稲一束を埋め、稲築山と号して其の上に社殿を建立し、中に八幡大神をあがめ、左に神功皇后、右に比■大神を祝祭し奉る。
稲築の名は之に起因せり。
八幡宮縁起の記録に、神功皇后が応神天皇とともに宇美から都にお帰りになる途中、漆生でお休みになったと言い伝えがあります。しかし、その場所を知っている人はいません。
ところがこの漆生村で風景の優れた山の頂上を七尺ばかり堀り、ここに稲一束埋め、稲築と号して社殿を建立しました。この社殿が稲築八幡宮のおこりであり、稲築(いなつき)の名のおこりと言われています。
1の鳥居、2の鳥居(左から)
2の鳥居は古そう(天保?寛保?)
本殿
彫刻も素晴らしい
寛保三年の銘が残る庚申塔