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【福岡県広川町】石人山古墳

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福岡県広川町の石人山古墳
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石人山古墳

 

 この古墳は、岩戸山古墳(八女市)・石神山古墳(みやま市)と共に、石人を有することによって全国的によく知られます。

 古記録に「貞享元年(1684)三月、一条村の南岡に石人を立つ云々」とあるように、石人そのものが神と認識され祭祀の対象ともなります。

 古墳の形は「造り出し」と称する平坦部を持つ前方後円墳で、前方部は二段に、後円部は三段に丘陵上に西面して築造され、周濠を有します。出土した須恵器片や埴輪などの年代から推考し五世紀前葉と考えられています。

 主体部は、横2m・奥行4mの石室に、阿蘇溶結凝灰岩で造った、横口式家形石棺が納められています。棺蓋は寄せ棟型の屋根で、頭頂部の長さは1・9m、底部の長さは2・8mを測ります。

 屋根の表面には重圏文・直孤文・三角文など精緻な彫刻が施されてます。

 棺身は四枚の板石を組み合わせて壁とし、高さは1・4m、長さは2・3mを測ります。

 また墳丘のくびれ部には、古墳名の由来となった石人が立ち、短甲を着し武装しており、像高1・9mを測ります。昭和五十一年六月五日、国の重要文化財に指定されました。


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武装石人
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史跡 石人山古墳

 

 この岡は東西7㎞もあり、古くから人形原とよばれ幕末の矢野一貞は、この台地の大古墳群を筑紫国造家の墓所であると云っている。この古墳群の西端にあって最も古い様式をもつのが本古墳である。5世紀後半の築造とみられる前方後円墳の墳丘は古式を示し、長さ110m幅、後円部で60m前方部で45mあり、大形と云える。中央に立つ石人はこの古墳の名の起りを示す。

前方部に向かって開く狭い石室は、いまほとんど失はれているが、それにおさめられた横口式家形石棺は円文直弧文などで飾られ、石人とともに九州の地方色を強く示している。
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この古墳の構造は、長峰丘陵の一部を利用して築造した前方後円墳であります。封土は二段に築かれ全体の長さ約110m、後円部の径は53m、前方部の幅約63mあり周囲に空堀の跡が残っています。後円部の前面には武装石人が立ち、貞享元年小堂を建て、これを■覆しています。江戸時代既に後円部の中央地下3mに石棺の前面は露出して副葬品については明らかでありません。昭和十二年三月二十五日、県の発掘調査によって石棺上の覆土を除き■棺の石郭の内部を部分的に発掘し、その結果、重圏紋と直弧紋が彫刻された見事な石棺の墓が初めて発見され、久留米の浦山古墳と並び称されるものです。

 これが保存のため、昭和十三年五月覆屋を設け昭和二十九年三月補修、昭和十九年三月改築しました。
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家形石棺

 

【福岡県うきは市】月岡古墳

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福岡県うきは市の月岡古墳
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月岡古墳

 

 月岡古墳は、今からおよそ1500年以上前の古墳時代中期(5世紀中頃)に、若宮古墳群の中で最初に造られた古墳です。全長は約80mで、墳丘の高さは前方部が6m、後円部が7m程度あり、前方部を西に、後円部を東に向けた前方後円墳です。昭和60年代に行われた発掘調査で、前方部の外側には三重の濠が巡っていたことなどが確認されています。

 今では古墳の形は若干崩れ、後円部にあった竪穴式石室は完全に失われていますが、江戸時代後期(1805年・文化2年)に、多く副葬品がここから発見されています。現在、後円部墳丘上にある建物は、本来は石室があった場所に建てられており。石室内に置かれていた凝灰岩質の長持形石棺が、発掘当時のまま大切に保存されています。

 この石室や石棺の中からは、鉄製の甲・冑・刀・剣・鏃・馬具のほか、鏡・玉類など多種多様なものが出土し、中でも細やかな文様を刻んだ金銅で飾った冑・脛当・ベルト金具・鞍といった品々は特に精巧な作りで、朝鮮半島との強いつながりが指摘されています。また、長持形石棺という、当時、勢力を誇っていた近畿地方の有力者の古墳と同様の埋葬施設をもつことなどから、この月岡古墳に葬られた権力者は、大和政権とかなり密接なつながりをもっていたと考えられ、考古学的にも大変注目される古墳です。

 

宮古墳群・・・周辺に分布する月岡古墳・塚堂古墳・日岡古墳の3つの首長墓

 

これらの貴重な出土品は、江戸時代の発掘の記録と共に一括して、昭和36年に国の重要文化財に指定され、現在、歴史民俗資料館に展示されています。

 


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石室があった場所に建てられた社殿

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花本大明神

百年の けしきを 庭の落葉かな

嘉永二年製

 

【福岡県うきは市】若宮八幡宮

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福岡県うきは市若宮八幡宮

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肥前系鳥居(肥前鳥居とは違うらしい)
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楼門

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若宮八幡宮燈籠(一対)

 

 天保十五年(1844年)六月の記年銘が残る青銅製の燈籠・現在、本殿の中にある。狛犬と同様に藤江伴右衛門の寄進である。京都近江屋で制作とあり、代金百二十両の記帳も残る。

狛犬と共に太平洋戦争時の金属献納を免れた


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若宮八幡宮狛犬(一対)

 弘化二年(1845年)の記年銘が残る青銅製の狛犬・江戸時代、吉井の豪商で室屋と称した藤江伴右衛門の寄進である。

筑前博多の山鹿平次郎の制作によるもので、胴部に日田の漢学者、広瀬淡窓の撰文がある。

 


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広瀬淡窓の撰文

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村田英雄生誕地の碑


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句碑の句

月の岡 日の岡古墳梅さぐる

俳号 中村 田人

本名 中村 勝

 

大正十二年五月十日大川市に生る

住所 久留米市小頭町十の二

 

昭和六十三年高牟禮主宰及び耳納ホトトギス選者となる

 

平成二十二年八月二日歿

 

古墳の絵 貫く月日 地虫出づ

 


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【福岡県うきは市】安富古墳

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福岡県うきは市の安富古墳

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安富古墳

 

安富古墳は、今からおよそ1400年程前の古墳時代の終わり頃(6世紀末~7世紀初頭)に造られた古墳で、墳丘・石室とも完全な状態で残っており、昭和56年に町指定史跡になっております。この古墳は、昔から入り口が開いた状態で、防空壕や住居、倉庫などとして利用されていた時期もあった様ですが、現在は自由に見学することが出来る様に公開されています。発掘調査は行われていないので詳しいことはわかっておりませんが、石室内からコバルトブルーの管玉2点と緑色の小玉1点が出土しています。古墳の形は円墳で、直径は約15mあります。

 主体部は前室をもつ複室の横穴式石室で、後室は部屋の中心辺りの幅が一番広くなる胴張りのタイプで、筑後地方独特といわれる円形に近い形をしています。石室には大型の石材を用い、天井に向かって少しずつ内側に石を積み上げる持ち送りの技法が用いられています。後室の最大幅は4mで、長さは5mあり、後室の一番奥の壁から入り口までは11mあります。


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石室入口には鍵がかかっているので内部を見学することはできません


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関様の由来

 田畑用の水路の堰が南の方にあり、水口を守護した堰神が関(神)様となり、水風、農作物の守護神として古くから敬われてきた(1750年頃から)

 

墳丘頂上部に鎮座しています


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古墳の傍には神社が鎮座しています

 




 

【福岡県大野城市】平野神社 絵馬堂


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『信州、川中島の戦い』 1893年明治26年

 

戦国時代の末期、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信信濃の領有をめぐって争い、信濃北部の川中島の地で前後5回に亘って戦いを交えた。この5回の合戦をまとめて『川中島の戦い』と言い。この絵馬は永禄4年(1561年)9月 第4回目の合戦の様子です、この時の戦いは、10日間にも及ぶ最大の激突であったと伝えられています。中央に馬上から長い太刀を振るって切り込む上杉謙信とそれを軍の扇で迎え撃つ武田信玄の一騎打ちの場面が描かれています。

 


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西南戦争』制作年代不詳

 

左右の絵が一対となって奉納されている絵馬です。征韓論に敗れた西郷隆盛は、明治10年(1877年)すでに官職を辞し鹿児島にいた。一方彼が創立した私学校の生徒が決起して、政府の機関である火薬庫、造船所を占拠し運搬中の陸軍の武器、弾薬を強奪した。これをきっかけとして両者の関係は益々悪化し、ついに2月15日、西郷隆盛が兵を動かして西南戦争が始まった。『西郷動く、、、』の報がもたらされるや、福岡、熊本、大分などでも不平士族が参戦して、戦争はたちまち九州全土に広がった。以後9月24日の西郷隆盛の自刃に至るまで、およそ7か月に亘って各地で戦が繰り広げられるのだがその模様がこの左側の絵馬に描かれている、橋上の兵士は右側が薩摩軍、左側が政府軍。左上部の遠くに望まれるのは熊本城と思われる。右側の絵馬は薩摩軍の本陣の様子で、西郷隆盛らの薩摩軍首脳が軍議中である。


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三国志』より

関羽張飛を連れて、孔明に会いに来た玄徳。孔明のいる柴門を入り内門のところで孔明に会いたい旨、手伝いの堂子に伝える玄徳。孔明は今お昼寝中であることを童子から聞くと、関羽張飛を柴門の方に引き下がらせ、玄徳は内門のそばで、孔明の目覚めを待った。


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神功皇后 海戦』1843年(天保14年)

神功皇后の絵馬が多いのは、近くに『宇美八幡』があり、そこが応神天皇 誕生の聖地として、また、安産の神様として知られていることから神功皇后、伝承を描いたものであろう。応神天皇の母は神功皇后とされる。この絵馬は、新羅との海戦の様子を表したもので、日本書紀に『船師満海』(軍船が海に満ちた)と記述されている場面を描いています。

 


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『通俗、三国志』1891年(明治24年9月)

三国志』の中から四つの場面を抜粋した絵馬です。市内に残る絵馬の中ではもっとも大きく、色彩も豊かです。以下それぞれ絵に書かれている文書と説明()内を書いています。

 

・右上ーー『通俗、三国志 季儒並びに帝王何太后に毒酒を進める図』(絵では左から、袁紹 薫卓 紹蝉? ■皇子とあります。後漢の逆臣 薫卓が皇帝と皇太后に背き、ついに毒酒を飲ませて暗殺してしまう場面。絵馬の中の曹卓とあるのは「薫卓」の誤りではないかと思われる)

 

・右下ーーー『玄徳天地を祭して桃園に義を結ぶ図』(劉備 張飛 関羽の三人が『桃園の義盟』で義兄弟の誓いを立てている場面。向かって左から劉備 翼徳(張飛段珪関羽)と思われる)

 

・左下ーー『玄徳 曹操に■泰 韓逞?の首を見せている図』

(絵では左から曹操 薫卓袁紹 玄徳(劉備)下は張譲と首は陳横 張英の名が見える)

 

・左上ーー『趙雲 孫夫人を嶋に流す図』絵では左から何太后雲長皇子下には段園?張譲の名がある)※絵馬の中の人名は判然としないものがあります、誤りのある場合はお許しください


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屋島、扇の的』 1843年(天保14年)

 寿永3年2月(1184年)摂津一の谷の戦いに敗れた平氏は、安徳天皇を奉じて讃岐(四国、香川県)へ敗走した。しかし、平氏は、屋島高松市沖)を拠点とし、優れた水軍の兵力をもって瀬戸内海の制海権を握り、その勢力はまだ衰えていなかった。そこでこの戦局を一気に逆転せんとして、源義経率いる源軍は元暦2年(1185年)摂津(今の大阪府)から四国に渡り、同年の2月に、平宗盛率いる平氏の軍と屋島で激突した。

これが『屋島の戦い』である。さて、合戦の最中、平氏方の軍船上に扇が掲げられ、一人の女官が源軍を差し招いた。これを見た源軍の武将那須与一は海中の馬上より見事にこれを、射落とし敵味方の区別なく喝采を浴びた。これは屋島の戦いになかでも最も名高い場面であり、絵馬には矢を放って扇の要を射抜いた瞬間の、那須与一の姿が描かれている。