歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【長崎県大村市】昊天宮

f:id:rekiken9:20190520145106j:image

長崎県大村市鎮座の昊天
f:id:rekiken9:20190520145100j:image

昊天宮由緒略記

 今から二千年程前(弥生時代)、郡川流域の平野に文化を築いた時代があり、その当時の豪族が一門の氏神として、祖神をお祀りしたのがこの昊天宮です。

 その頃は肥前国彼杵郡(現在の東彼杵郡西彼杵郡大村市)と呼ばれ、この地域の総鎮守で現在の沖田町付近にあったといいます。

 ご神体は、和銅五年(712年 奈良時代初期)、行基菩薩が郡岳(標高826m)の聖域で謹製奉納したと記されています。

 永観二年(984年 平安時代初期)大村家初代領主直純公着任以来、大村家の守護神として御崇敬深く、社殿も華麗広大で郡内はおろか他郡からも老若男女の参詣者群をなし、お祭りも流鏑馬等の神事もあり、大変賑やかであったといいます。

 文明六年十二月(1474年 室町時代中頃)、大村純伊公が、萱瀬の中岳で有馬氏との戦いに敗れ、日夜、昊天宮に御祈願になり、千日間参拝の誓いを立てたところ「伊勢参宮せよ。」との霊夢を得て参拝の途次、有力な援助者渋江公勢が現れ大勝利となり、文明十二年八月(1480年)御帰領できたのであります。そこで、朝夕戦勝を祈願している昊天宮に詣で喜びの奉告を行い、境内に陣地を敷いて敵の夜襲に備えたところ、それを聞いた宮小路・黒丸・沖田等の領民たちが大喜びで駆け寄り、領主のたくましく成長された姿を見て嬉し涙の中に作った食事が今の大村の「おし寿司」で昊天宮が発祥の地であります。

 ここに昊天大神の御神徳を尊び感ぜられ、祭祀の礼厚く社殿の造営・神田の寄進数町等、彼杵群総鎮守としての神社の面目を一新されました。

 その後、大村純忠公のキリシタン政策により、天正二年(1574年 安土桃山時代)大村領内の寺社と共に、当宮も焼き討ちにあいました。この時、御神体は、事前に阿金法印により嬉野に遷されましたが、慶長七年(1602年)大村喜前公による再建時に、もともと昊天宮の御旅所であった現在の境内地にお戻りになりました。再興後の当宮は、大村藩総鎮守として、また大村藩主の直祭社として、開運・旗揚げ。安産・厄除け・旅行の守護神として崇敬特に厚く、祭礼には大村藩内四十八ヶ村の村により、氏子・崇敬者・群をなせりと記してあります。

 明治になりまして廃藩置県後は群村ににて奉斎しておりましたが明治二十二年四月、町村が規制されてからは竹松村にて奉仕して参りましたので、地名を以て竹松神社と称していましたのを昭和三十六年九月、大昔の通り昊天宮と改名し今日に至っております。


f:id:rekiken9:20190520145057j:image

戌の話

犬は「狗」とも書き「日本書紀」には日本武尊が道に迷った折に「白狗」が現れ、これについて行き、無事美濃國に出たことが記されています

「戌」の文字には守るという義があり、狛犬など神域神前を守護する存在として神社に縁深い存在であることは周知の通りです

神前を守護する狛犬の起源は奈良時代からです。京都御所には獅子と狛犬が向かい合わせて描かれています。

東海道五十三次」で著名な歌川広重の錦絵「伊勢参宮 宮川の渡し」には御祓大麻と銭を首にかけた白い犬が描かれており群馬県では戌年の参宮を非常に縁起のよいものとして特に選んで参拝したということです

犬の諺の一つに「犬も歩けば棒にあたる」があります。何か物事をしようとする者は、それだけに災難に遭遇することが多いという意味でもありますが、反対に何かをやっている内に思いがけない幸運にめぐり会うという意味でも用いられます。

狛犬」の語源には十二の説があり、例えば神功皇后が高麗に渡った際に犬が軍の先手となって功を成したからであるとか、「高麗」が転じて狛犬になったとか様々な説があります。


f:id:rekiken9:20190520145049j:image

拝殿
f:id:rekiken9:20190520145053j:image

「馬形の昊天宮神馬」

 竹松遺跡の発掘(平成23年~28年)で平成25年に土馬が発見されました。

古代より馬は神様が乗る神聖な守馬と考えられていました。守馬として信仰された馬形埴輪の天空に伸びた耳は国の弥栄を意味し、大きな足は、揺るがない大地、世の中の固めを意味しています。

馬の信仰は、やがて馬形埴輪から土馬が造られ、さらに絵馬奉納へとなっていきます。

竹松遺跡で発見された土馬は、奈良・平安時代、郡の人々が神々への祈りに使用した祭具で、昊天宮の祭祀の古形を現します。現代の大祓神事の起源です。

竹松遺跡を記念して、古代から受け継がれた昊天宮と故郷の永久の栄えを守馬に祈念し奉献致します。


f:id:rekiken9:20190520145112j:image

昊天宮には、人々の幸せをお護りする神様がおられます。そこには、こんな話(由緒)もあります。文明六年(1474)十二月、大村純伊公は、有馬氏と萱瀬で数度戦われましたが勝利なく(北松佐々の)加々良ヶ島に七年間潜居されました。その間、日毎夜事、昊天様に武運の高揚を御祈願になり見事勝利の折には千日参拝すると誓願をたてられましたところ、大勝利をおさめられ、文明十二年八月御帰領になり誓願どおり千日参拝を果たされました。昊天様のご加護を尊ばれ社殿の造営等神社の面目を一新、幸を恵まれたと言う意にて「幸天」と改名されたといいます。その後、しばらく幸天神社と呼ばれていました。池田の幸天神社はこの時純伊公の手によって幸せと感謝の心をこめ境外社として創建されました。そして、このご加護を後世に伝えるため城と昊天宮を結ぶ参道に木を植樹し並松(現在の松並・植松・古賀島・西大村・森園・乾馬場)の地名の起源となりました。幸せは広く大村内に広がったのです。この幸せの御利益をいただこうと幸せ灯篭を建立いたしました。幸せ灯篭に灯された幸せへの参道を通り両手をあわせて祈られた時、必ずや神様の御元にその願いが届きますようにと、明々と灯す炎に願いをこめております。

 氏子の皆様・崇敬者の皆様そして、御参拝いただく沢山の皆様の幸せが永遠でありますように・・・・・・

 

f:id:rekiken9:20190518182039j:image

 

 

神社名 昊天
住所 長崎県大村市宮小路2丁目537
TEL 0957-55-8450
御祭神  伊邪那岐神伊邪那美神、邇邇芸神、木花佐久夜毘売神、鵜葺草葺草合神、玉依毘売神、天照大御神須佐之男神、大村直澄神(大村領主始祖)
創建年 2000年程前
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印