【山口県周南市】山崎八幡宮
楼門
山崎八幡宮は、社伝によると和銅二(七〇九)年、豊前国宇佐神宮の分霊を富田河内の神室山に祀った後、宝亀元(770)年、今の地に遷したことに始まる。大同元(806)年と宝暦七(1757)年に焼失しましたが、翌八年に徳山藩六代藩主毛利広寛によって再建されました。現在の社殿は明治十三年に改築されたものです。
元禄十五(1702)年に徳山藩三代藩主毛利元次が五穀豊穣を祈願して当社に本山・爺山・婆山を奉納したことに始まる本山神事は、平成十四年に市指定文化財(無形民俗文化財)に指定されました。また、かつて例祭の前には連歌が奉納され、延宝八(1680)年から明治五年までに奉納された連歌懐紙(付 重硯一式)は昭和五十七年に市指定文化財(書跡)に指定されました。
由緒
和銅二年八月豊前国宇佐より分霊を本市富田の河内神宝山に祀り宝亀元年十一月山崎の地に遷すと江宮と称し後荘寺八幡宮と改称、慶應二年山崎八幡宮と号を改む、古来領主藩主の崇敬篤く天文八年領主陶弘護同隆房は扁額を寄進、江戸時代には毛利歴代藩主の祈願所として藩主の社参代参、連歌の献詠、流鏑馬等が行われた。また新●陽市はもとより野島、大津島、徳山市周辺の氏神様として広く庶民にも信仰されている。
毛利元就公ゆかりの石碑
『洞春公(毛利元就)の安芸に起るや使を遣わして以て祈ること数(しばしば)なり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄有(領)す。以て冥裕(神仏のご加護)の使事する所となす』
文化四年(1807)南部伯民撰文
築山之碑詞
山崎に鎮まります廣幡の八幡大神の宮前は四方をみはるかすに心あらむ人にもいはまほしき気しきなむ南には黒髪島竹島などしまじまならび塩所にはもしほのけぶり朝夕になびきてえもいはずおかししかあるに明治の廿あまり二季といふ年より心ざしある人たち思ひおこして御社の東に池を掘り島を造れり南の海辺なる島々よりここらの石を運びてそのはざまにはさまざまの草木を植えたり巌のたたずまひ抔いとめづらかになむされば春は花のころ秋は紅葉の時など人の心をゆかしむべし掛巻もかしこけれどをりをりは神のみ心を慰め給ふらんかかれば菊川の久しくまがだけの動きなくみやしろのさかえむことをことほぎつつかしこみかしこみもしるす
築山
拝殿
本殿
神社名 | 山崎八幡宮 |
住所 | 山口県周南市宮の前1丁目9−2444番1 |
TEL | 0834-63-2550 |
御祭神 | 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、応神天皇、神功皇后 |
創建年 | 770年 |
社格 | 県社 |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |