【大分県臼杵市】臼杵護国神社
臼杵護国神社は明治十一年創立の招魂社(昭和十四年四月一日臼杵護国神社となるが、終戦後は招魂社と称した)を明治十二年創立の稲葉神社に昭和三十五年合併、稲葉神社を臼杵護国神社と名称を変更した。旧招魂社は、明治十年西南の役で薩摩軍が臼杵に侵入した時、旧臼杵藩士の日下東命等らが、臼杵隊を組織して防戦したが遂に破れ四十三名の戦死者を出した。明治十一年六月有志が戦死者の霊を祀るため、臼杵城趾に一社を創建した。以後、臼杵町に本籍がある者、或いは縁故がある者で、戦時又は事変で戦死し、靖国神社に奉斎された者すべてを合祀した。又市制施行により合併した旧六カ村の戦没者も合祀した。
旧稲葉神社は稲葉家の旧臣が、臼杵藩祖稲葉良通公(一鉄)と歴代藩主の霊を祭祀するため建てられた。明治十二年十一月五日勘請式を行い、稲葉神社と公称した。
木梨鷹一海軍少将の戦死
鷹一は、明治三十五年三月七日臼杵町野田753番地で生誕した。大正九年臼杵中学から、当時受験競争率最高三十倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵五十一期生)、大正十二年卒業。昭和五年航海学校航海学生(大尉)となり同六年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同十二年十一月海軍少佐となり、同十五年三月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。
太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号十九潜水艦長として、昭和十七年九月十五日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷六本を発射うち五本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。
昭和十八年十一月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を受け、昭和十九年三月十一日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受け取った。その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。
八十七日を経て、七月十二日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、厳谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。七月二十六日にバシー海峡で未潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。
この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年四十三歳。
馬締安正命
馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チヨの三男として臼杵市大字戸室に出生。市浜尋常小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引き続き熊谷陸軍飛行学校第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。
昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において米艦船群に体当たり攻撃敢行戦死を遂げる。同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。
遺書
実夫馬締兵市様
皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。ご健康をお祈りします。
実兄馬締中尉殿
弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたします。兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のところに行きます。
砲弾記念碑
明治二十八年九月十七日
敬献 海軍中将軍医総監 河村豊州
臼杵藩士として代々医療を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(1849)1月26日生まる。
荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋楽を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。
明治八年 海軍中軍医となる
明治十年 西南戦役に功あり海軍大軍医となり勲五等を受く
明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる
明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く
明治三十八年 功四級金鶏勲章を賜り九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する(現在の砲弾は実物大レプリカ)
明治三十五年 従四位高等官一等に叙せられ予備役となる
退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り、北海道開拓に尽力する
昭和八年(1933)十一月八日八十五才にて永眠
青山墓地に眠る
御神池
神社名 | 臼杵護国神社 |
住所 | 大分県臼杵市臼杵7582 |
TEL | |
御祭神 | 稲葉良通ならびに歴代藩主と国家公共につくした人の神霊 |
創建年 | 1878年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 |