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【大分県臼杵市】臼杵城

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大分県臼杵市臼杵城
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稲葉氏の城郭改修

帯曲輪

 大友氏時代から太田時代(1556-1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙阪を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。

 稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。

 また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙阪の登城口は古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からです。

 

畳櫓

 畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。この櫓は正保年間(1644~1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763年)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764~1772年)頃ではないかと推定されます。

 「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。


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大分県指定史跡 臼杵城

 臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。

 大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩五万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。

 その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓の建物はすべて破壊され、公開化されました。

現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。


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遺跡名 臼杵城
住所 大分県臼杵市臼杵丹生島
TEL  
年代 1556~
指定区分 県指定史跡
駐車場