【福岡県】正ノ宮正八幡神社
行橋と森鷗外『小倉日記』
旧行橋町
今川、長峡川の河口に拓けた集落。旧豊前国京都郡と仲津郡境に立地。明治二十二(1889)年、京都郡行事村、仲津郡大橋村、宮市村の三村が合併。「行橋」は、行事の「行」と大橋の「橋」を採用し施行された町名です。江戸時代は商業地域として発展し、蔵、屋敷、商家が立ち並ぶ在郷町でした。明治期には、郡役所、銀行、警察署、裁判所等が設置され、筑豊炭田の発展に伴い、鉄道が開通。大正末から昭和初期にかけて行橋町耕地整理事業が実施され、行橋駅周辺に、ほぼ現在の市街地の原型が形成されました。
昭和二十九(1954)年、近隣一町八村(行橋町、蓑島村、今元村、仲津村、泉村、椿市村、延永村、今川村、稗田村)が合併して「行橋市」となりました。
森鷗外の『小倉日記』
明治時代の文豪・森鴎外【1862~1922】は、陸軍第十二師団の軍医部長として小倉に赴任。『小倉日記』は、明治三十二(1899)年六月から三十五(1902)年四月までの二年十ヶ月を九州の地で過ごした時につづられたものです。鴎外と行橋との関わりは深かったようで、行橋には三度訪れたことが記されています。
①明治三十三年十月十三日 行事高等小学校にて講演
②明治三十四年七月三・四日 陸軍演習(七月三~九日)
③明治三十四年十一月十五日 行橋町散策
日記には、講演で訪れた行事高等小学校、料亭梅乃屋、柏木勘八郎邸、陸軍演習で宿泊した近江屋、清遊で参拝した草野正八幡宮(正ノ宮正八幡神社)、禅興寺などが登場します。
明治三十四年十一月
十五日。味爽、俊■来たりて、予を喚んで起たしめ、偕に行橋に行かんことを勧む。(中略)行橋に至る。草野八幡宮に詣づ。享保三年の石華表あり、猪熊、草野、長音寺の諸村を望む。師の従弟、山本勝平の家に午饗す。午後、田畔を歩みて稗田村を望む。村上仏山の郷なり。大橋の禅興寺を訪ふ。三時七分汽車に乗りて還る
出典 『森鴎外全集』第三十五巻
文中の「俊■師」は、草野正八幡宮の宮司広瀬延考の二男でした。玉水俊■は、鴎外と親交のあった小倉安国寺住職です。また、享保三(1718)年の石華表(小鳥居)は今も残っています。『小倉日記』は明治三十年代の北部九州の歴史、民俗、人物、景観、町並み等が散見され、近代の当地域を知る上で貴重な資料です。
拝殿
本殿
神社名 | 正ノ宮正八幡神社 |
住所 | 福岡県行橋市行事7丁目7−17−1 |
TEL | 0930-22-1703 |
御祭神 | |
創建年 | |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 |