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【大分県佐伯市】佐伯城跡とその周辺史跡

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毛利二万石の城下町

・初代毛利高政

慶長6年(1601)日田より佐伯へ移された高政は、番匠川の河口、塩屋村の八幡山に新城を築き、塩屋の浜を埋立て城下町を建設しました。

・三代高直

寛永14年(1637)三の丸御殿を創建して藩政の場を山頂から三の丸へ移し、櫓門を設けました。

・六代高慶

宝永4年(1707)の津波被害を受けて、中村外に大土手を、城下の外周に長堤を築きました

宝永6年(1709)より鶴屋城の修築にかかり天守を除いて創建当時の姿を再現、大手門・搦手門を整備しました。

元文元年(1736)の大火を受けて町割を再編し土民の居住区を設定。

・七代高丘

家中及び町家に瓦屋根を奨励しました。

・八代高標

安永8年(1779)藩校「四教堂」を創立、天明元年(1781)城中に「佐伯文庫(蔵書8万巻)」をつくる。

このころ飢饉が続き、御典医・今泉元甫は藩に米150石を献上し、城山の麓に三つの井戸を掘って窮民を救った。

・十二代高謙

文久三年(1863)三の丸下に南御殿(天祐館)を造営、明治4年(1871)七月廃藩置県によって佐伯県が発足したが同年十一月には大分県に統合された。


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 八代藩主高標(たかすえ)は藩の文教をすすめるため、安永六年(1777)城内に一大学舎を新築し、これに名づけて「四教堂」(しこうどう)といった。名称の由来は「礼記」にある詩・書・礼・楽の教えとされ、また「論語」にある文(学問)・行(徳行)・忠(忠実)・信(誠信)の教えともいわれている

玄関ノ間の床には文宣王(孔子)の聖像がかかげられて、四教堂教学のよるところを明示していた。

 

四教堂の教授

矢野黙斎・山本七兵衛・松下筑陰(筑後久留米・広瀬淡窓の師)・吉田節右衛門・岡三左衛門・佐野渉・明石秋室・中島子玉・高妻芳州・秋月橘門


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藩校四教堂

直心影流道場跡

安永六年(1777)八代高標(たかすえ)は藩校「四教堂」を開設、隣接して直心影流稽古場を開き文武両道の教育を奨励した。これより佐伯藩の学芸は興隆し多くの人材を輩出した。


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山中家屋敷跡

 

 鶴屋城(佐伯城)の麓にあたるこの地区は、江戸時代には佐伯藩上級武士の住む屋敷が建ち並んでおり、今でも当時の景観が残されています。

 山中家屋敷跡はその一角に位置します。平成二十二年に、残されていた建物の礎石などを活かして広場として整備しました。

 

①茅葺きの武家屋敷が写っている明治末期の写真をもとに、当時の景観を復元しました。左端の茅葺きの屋根が山中邸です。

 

②文政9年(1826)の絵図に「山中加左衛門」の名が見えます。以降、現代まで山中家の屋敷地でした。平成8年までは屋敷も残されていました。

 

③屋敷跡には建物の礎石や縁石、庭石などが残されていました。建物の間取りや庭園のデザインに江戸時代の特徴が見られます。

 

④平成21年の発掘調査で、江戸時代後半から明治にかけての陶磁器や金属製品、ガラス製品などの日常生活品が出土しました。

 


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山中家屋敷跡
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龍鼎山養賢寺専門道場

 この寺は、慶長十年(1605)佐伯藩初代毛利高政公が鶴屋城の創築及び城下町づくりと時を同じくして、毛利家の香華院(菩提寺)として創建したもので、開山第一祖は京都妙心寺から大観慈光禅師を招き、臨済宗妙心寺派に属する。

 虚空高々と銅瓦葺きの大屋根がそびえる本堂、その須弥壇には本尊釈迦牟尼仏が拝され、その隣には藩祖高政公をはじめ、歴代藩主の位牌が並び、大名の香華院としての森厳さを示している。

 本堂につづく閑静な大書院、大屋根そそり建つ古風な庫裡、方桁造りの位牌堂、江湖専門道場としての禅堂、白亜塗込めの経堂など伽藍うち並び、四百年近い歴史のたたずまいを深々と示している。

本堂の裏手一段高いところに、藩祖高政公の霊廟をはじめ、歴代藩主の墓塔立ち並ぶ毛利家の墓所がある。

 なお、この山際通り一帯は「歴史と文学のみち」として整備し、歴史的環境保存地区に指定されています。


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観音像
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楼門の記

楼門の旧記には次のようにあった

 

該櫓門者寛永十四年三代 高尚公創建

享保十一年六月六大高慶公再造

天保三年十月十一代 高泰公三造■

 

豊後佐伯城(鶴屋城)最後の遺構であるこの櫓門は、ここに完全修復の工事を終わった。

 その進行中、佐伯市は櫓門を特別建造物として文化財に指定し、東京都にお住まいの毛利家は、この櫓門を無償で佐伯市にご寄贈下さった。

 すべてにその主力となった佐伯史談会の働は、永く人々に記憶されるであろう。

 このたぐいまれな櫓門が、かがやくばかりの美しい姿で鶴屋城の歴史を、何時までも語りつたえてほしい。


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県指定有形文化財

佐伯城三ノ丸櫓門

 

 この櫓門は、三代藩主毛利高尚の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永十四年(1637年)に藩庁の正門として創建された。

 佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。


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佐伯城三ノ丸櫓門

 

遺跡名 佐伯城跡とその周辺史跡
住所 大分県佐伯市若宮
TEL  
年代  
指定区分  
駐車場