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【福岡県那珂川市】裂田溝

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裂田の溝(築造年代不明)

 この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくたのうなで)です。

 山田の一ノ井堰から取水し、山田をはじめ、流域の六集落の田地をうるおしてきた重要な人工の用水路で、日本書紀には「・・溝を掘っていると、大岩に突き当たり、それ以上進めなくなった。そこで、神に祈ったところ、雷が落ち、その大岩が避けて水を通すことができた・・」と書かれ、それがこの溝の名前の由来にもなっています。我が国で一番古い歴史書に書かれ、現在まで使われ続けている溝は全国でも珍しく、貴重な遺跡ともいえます。

 これより下流には、当時とあまり変わっていない所がいくつかあり、はるか古代の大がかりな工事を想像できるのはではないでしょうか。


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左奥に見えるコンクリートで固められた岩が裂田溝伝説の岩
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裂田溝~裂田溝の発掘調査

 裂田溝の名前の由来は、『日本書紀』の記載によるものですが、記載されている「大岩が立ち塞がった」のがこの場所だといわれています。教育委員会が実施した調査では、このことに関する貴重な成果が得られました。地質的な調査では、ここより上・下流は軟らかい地盤であるのに対し、この場所だけ硬い岩盤が東側の丘陵から細長く張り出していることがわかりました。(右図参照)また発掘調査でも、裂田神社の裏手から溝の底を経て、対岸まで広がる花崗岩の硬い岩盤を確認しています。つまり、ここまで掘り進んできた水路を北側へ通すためには、どうしても水路の開削を遮っている硬い岩盤を突破しなければならず、その工事がいかに大変であったかが、日本書紀の記載に繋がったのではないかと考えられます。

 裂田溝は、水田への水の供給をはじめ、私たちの生活と大変密接な関係にあったため、これまで必要に応じて何度も改修され溝幅も変化しています。しかし、この場所は伝説と符合するため、水路の初期の形状を留める可能性が高い重要な場所といえます。


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裂田溝
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裂田溝~裂田溝と■驚岡(安徳台)~

 裂田溝の開削に関する記載で『日本書紀』に登場する「■驚岡」は、目の前に広がる台地であると考えられています。台地は現在「安徳台」と呼ばれており、約9万年前に大噴火した阿蘇山火砕流堆積により造られました。この先の木製の遊歩道を進むと、裂田溝と台地が最も接する部分でこの火砕流の断面が間近に迫り、日本書紀の時代を遥かに超えた太古の自然の猛威を感じることができます。

 安徳台の広さは約10万㎡あり、平地との比高差も30mほどあることから、自然の要害ともいえる地形をしています。この場所は裂田溝に関連する地であるだけでなく、発掘調査の結果、弥生時代中頃(約2000年前)の大型住居や首長の墓も見つかりました。特に首長の墓(甕棺墓)からは、権力を象徴する豪華な副葬品が見つかり、台地上には、中国の歴史書魏志倭人伝』に登場するクニのひとつ、「奴国」を支えた大集落があったことがわかりました。その他、平安時代に都を逃れてきた安徳天皇が「仮御所」を構えた場所とも伝えられており、裂田溝と同様に、市を代表する重要な歴史遺産といえます。

 

遺跡名 裂田の溝
住所 福岡県那珂川市大字山田515
TEL  
年代 不明
指定区分  
駐車場