【広島県福山市】福山城
福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和六年(1620)より三ヶ年の歳月を費やし、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。
総面積約八万坪(26・5ha)内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。
その後、水野五代、松平一代、阿部十代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。
幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。
なお、現在の天守閣等は、昭和四十一年市制五十周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城郭は国の史跡となっている。
城名 鉄覆山朱雀院久松城
別名 葦陽城
ふくやま文化ゾーンマップ
史跡 福山城跡
この城は、元和五年(1619)福島正則の改易により備後十万石の領主として入封した水野勝成か、三年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。
低い丘陵を利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。
現在内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街化しているが、二之丸・本丸は築城当時の姿をよく伝えている。
城地には、そそりたつ石燈をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。
なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和四十一年(1966)に、鏡櫓は昭和四十九年(1974)に、それぞれ外観復元したものである。
城号 敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城(葦陽城)
城主 水野氏五代・松平一代・阿部氏十代
伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床坂敷き、小屋染天井としている。城郭建築史上初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。
筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付櫓門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。
伏見櫓
筋鉄御門
築城当時より城下や近隣諸村に「時の鐘」をつげた遺構で江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。
当初は杮ぶきか桧皮ぶきであったが、明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原型をとどめない状況であった。昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。
城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく貴重な文化財である。
福山城鐘櫓
湯殿
京都、伏見城内にあった御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されていたが、昭和二十年(1945)の戦災により焼失した。
昭和四十一年(1966)に内外ともに復原したものである。
湯殿
月見櫓
月見櫓はもと京都・伏見城内にあったものを移築したものといわれ、本丸の東南隅に位置し、望楼の役割を成していた。
明治の初め頃とりこわされたが、昭和四十一年(1966)に天守閣とともに外観復原した。
月見櫓
この長屋門は福山城の外濠に面した位置にあった武家屋敷内藤家の長屋門である。
昭和二十年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物である。内藤家の初代延常は武蔵国(埼玉県)岩槻城主阿部正次の家臣となり阿部家が宝永七年(1710)福山藩主に封じられたとき内藤家三代延貞が随従し以後明治四年(1871)の廃藩まで阿部家家臣として仕えた。
本建造物は、昭和五十一年三月所有者である福山市西町中井良介氏より福山市が寄贈をうけ現位置に解体修理移築をしたものである。
構造形式等
桁行 17・73m
梁間 2・955m
平面積 52・39平方m
屋根 入母屋造■瓦葺
建築年代 弘化三年(1846)
旧内藤家長屋門
遺跡名 | 福山城跡 |
住所 | 広島県福山市丸之内1丁目8 福山城 |
TEL | |
年代 | 1619年 |
指定区分 | |
駐車場 | 有 |