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【長崎県長崎市】興福寺

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長崎県長崎市興福寺

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千里眼
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順風耳
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県指定史跡 興福寺寺域

 興福寺は、元和6年(1620)創建されたわが国における最初の唐寺です。開基は江西省出身の眞圓、寺地は元欧陽氏の別荘でした。眞圓は寛永12年(1635)まで住職を務め、その後二代目には、眼鏡橋を架けたといわれる黙子如定が住職に就きました。

 承応3年(1654)三代逸然性融は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、福建省黄檗山万福寺の隠元禅師を招き、隠元を住職に推薦し、自らは監寺に下りました。明暦元年(1655)隠元が東上すると、翌2年正月から中興二代澄一道亮が住職を勤めるようになりました。

 興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっています。


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興福寺の幡と五色の吹き流し

 長崎が最も華やかだった唐船時代、海原を越えて長崎に入港した清朝の江蘇・淅江船のアチャサン達は、風頭山に立つ菩提寺興福寺に掲げられた寺の幡と五色の吹き流しを望み、無事到着を媽祖様を下らすと、この吹き流しを目印に行列を組んで興福寺に向かい媽祖様を安置したのです。

 長崎の人々は、唐寺に吹き流しが掲げられると、媽祖様の行列を心待ちにしたと伝えられます。


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県指定有形文化財 興福寺媽祖堂

 媽祖は、道教海上守護神で、天后聖母・天妃・老媽・菩薩その他の呼び名があり、特に華南地方で信仰が厚い。唐船は船毎に媽祖像を祀り、長崎滞泊中は船から揚げ降ろして、唐寺の媽祖堂に安置された。

 寛文3年(1663)長崎市中を襲った大火により、興福寺も被災した。堂内正面には、寛文10年(1670)の「海天司福主」の横領があり、大火後7年目の寛文10年には媽祖堂は整備されていたと思われる。しかし、現存する媽祖堂が、火災後の復興によって再建されたものかどうかは、諸説があって定かでない。

 現存する建物は、黄檗天井の前廊・化粧屋根裏風天井で、内外は総朱丹塗であるなど、中国の建築様式が見られるが、細部の様式は基本的に和風である。

 


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媽祖堂
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国指定重要文化財 旧唐人屋敷門

 寛永13年(1636)の出島の完成に遅れること54年、元禄2年(1689)十善寺郷御薬園跡に唐人屋敷が完成。長崎に来航した中国人の民宿を禁じて、皆ここに居住させることとした。

 唐人屋敷約3万㎡の敷地には、住宅・店舗・祀堂その他が軒を連ね一市街地を形成した。その後数度の火災があったが、天明4年(1784)の大火で関帝堂を残し他は悉く焼失、以後は中国人が自前で住宅等を建築することが許可された。この門の用材は中国特産の広葉杉で、建築様式も中国様式特有のものであり、天明大火以後の住宅門と思われる。旧唐人屋敷内に遺存していたのを、保存のため、昭和35年(1960)現位置に移築された。扉は二重で、内門は貴人来臨専用である。


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旧唐人屋敷門
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氷裂式組子の丸窓

 国指定重要文化財・大雄宝殿は明末期の純粋な中国建築様式で、その大きな特徴は黄檗天井とよばれる蛇腹型いわゆるアーチ型の天井と、正面両脇にある氷裂式組子の丸窓である。氷裂式組子は文字通り氷を砕いたような文様で大変珍しいもの。

 組子とは、釘を使わずに木を組み付ける技術のことで、細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組付けしていくものである。

創建当時は組子の裏側全面が硝子張りになっていて、陽の光に輝いて、まるでステンドグラスのような美しさだったという。しかし、第二次世界大戦時の原爆投下で興福寺の本堂である大雄宝殿も爆風で大きく傾いた。幸いに裏の石垣に支えられて助かったものの、正面の格子戸や丸窓も全て吹き飛んでしまった。戦後45年かかって現存の建物は修復がなされたが、残念ながら組子裏面の硝子を施すことは出来ず、板張りの状態で修繕を終えた。

 明末期を代表する建築様式である氷裂式組子は、現在の中国でもこれだけ大きく功績なものはもはや残っていないという。
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氷裂式組子の丸窓
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闕魚

 正式の名称は飯梆僧達の飯時を告げるために叩く板の魚です。この魚板は全国の禅寺にあるものの中の最優秀作といわれます。闕魚は揚子江にいるまぼろしの魚といわれています。この魚板が雄左奥のが雌でこのように雌雄一対でかかっているのは珍しく、また何百年もの間叩かれたのであの様に腹部が凹んでおります。叩くとコーンコーンと案外遠方まできこえます。


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闕魚
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興福寺三江会所門
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豚返しの敷居

放し飼いの豚が門内に入らないように、敷居が高くなっています。人が通るときには、二段式の上部が取り外してきます。


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県指定有形文化財 興福寺三江会所門

 江南(現在の江蘇省及び安徽省上海市)・浙江・江西3省のいわゆる三江の出身者が明治11年(1878)三江会を設立し、事務所を当寺内に置いた。明治13年(1880)、その集会所として三江会所が建てられた。昭和20年(1945)原爆で大破し、現在はその門だけが遺存する。中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物。外面は門扉を中心に左右に丸扉を配し、他は白壁、門扉上部の棟瓦を他よりも一段高くした簡素清明な意匠である。大雄宝殿再建と同じ中国工匠の手によると思われ、肘木・虹梁・彫物・高い敷居など細部に中国式の手法が窺える。


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興福寺の由来

 黄檗宗東明山興福寺は、元和6年(1620年)唐僧、真円によって創立されました。

2代唐僧、黙子如定は眼鏡橋の架設の指導者として知られ、3代唐僧、逸然は唐絵を広めた近世漢画の祖と言われています。

 いんげん豆で有名な隠元禅師は、承応3年(1654年)に中国福建省から長崎に来て興福寺に入山し、のちに京都府宇治に黄檗萬福寺を建てて、日本の黄檗宗の宗祖となりました。興福寺は、長崎の唐寺の中で一番早く建てられた寺で、通称「赤寺」と呼ばれており、寺内のほとんどが文化財に指定されています。

※国指定重要文化財

大雄宝殿(本堂)・旧唐人屋敷門

※県指定有形文化財

山門・鐘鼓楼・三江会所門・長崎聖堂・媽祖堂・境内全域(史跡)


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国指定重要文化財 興福寺本堂(大雄宝殿)

 中国江西省の劉覚が元和6年(1620)頃長崎に渡来、僧となり真圓と称してこの地に小庵を営んだ。南京地方出身の在留唐人が寺の創立を図り、媽祖堂・仏殿を建てて真圓を開基とした。寛永9年(1632)唐僧黙子如定が渡来、2代住持となり寺観大いに整い、更に承応3年(1654)唐僧隠元隆■を迎え、外堂・山門等一段と整った。元禄2年(1689)に再建された大雄宝殿が、慶應元年(1865)の暴風で大破したため、明治16年(1883)再建されて現在に至る。中国工匠の手による純粋の中国建築で、巧緻な彫刻・華麗な彩色・氷裂式組子の丸窓が珍しい。


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本堂

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寺名 興福寺
住所 長崎県長崎市寺町4−32
TEL 095-822-1076
本尊  
創建年 1620年
駐車場
備考