歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【大分県日田市】咸宜園跡

f:id:rekiken9:20200209204311j:plain

遠思楼

 

 史跡咸宜園跡の一角に建つこの二階家は、嘉永二年(1849)広瀬淡窓が六八歳のときに書斎として建てられ、遠思楼と名づけられた。

 淡窓はこの楼を好んで使い、階下は書庫として眺望のよい階上では読書や思索のほか門弟や知人たちと詩会を催し、月や雪をめでて小宴や談話を楽しんだりした。

 明治維新以降塾の衰退によって、明治七年(1874)には中城川畔に移され、多少の改修を加え民家として使われていた時期もある。

 昭和二九年(1954)には、淡窓忌百年祭の記念事業として淡窓の居宅である「秋風庵」の裏に遷された。

 老朽化に伴い、文化庁の補助を受けて保存修理工事が行われ、平成十三年、往時の場所に素朴なたたずまいが復原された。

 淡窓の漢詩集「遠思楼詩■」は、この建物に由来しこの楼の名を世に知らしめている。

f:id:rekiken9:20200209204821j:plain

遠思楼

f:id:rekiken9:20200209205218j:plain

f:id:rekiken9:20200209205404j:plain

f:id:rekiken9:20200209205635j:plain

f:id:rekiken9:20200209205947j:plain


大分県日田市の咸宜園跡

f:id:rekiken9:20190910210640j:image

国史跡 咸宜園跡

 江戸時代後期には日本全国で教育熱が高まり、各地で藩校や郷校といった学校のほか、個人による私塾が多く開設された。豊後日田の儒学者・廣瀬淡窓(1782~1856)は豆田町の豪商廣瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。文化2年(1805)長福寺学寮を借りて開墾、その後「成章舎」、「桂林園」を経て、文化14年(1817)淡窓36歳のときに、自ら幼いころに養育され、俳人として著名であった伯父月化の居宅・秋風庵の隣に塾を構え、「咸宜園」と呼んだ。咸宜園の「咸宜」とは「詩経」からとった言葉で、「ことごとくよろしい」という意味である。

 入門時に身分・年齢・学歴を問わない「三奪法」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる「職任制」などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。現在も4600名を超える「入門墓」が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三洲、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣らがいる。このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだ者は5000名を超える。門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引継がれ、明治30年(1897)に閉塾するが、江戸時代の私塾としては最大規模を有していた。

 咸宜園の建物は、門下生が増え、塾の規模が拡大するに従って増加した。発掘調査の成果や残された絵図等から、門下生の学びと生活の場や、塾主の居宅・書斎を含めた多くの建物が確認された。道を挟んで東側に講堂・東塾・秋風庵・遠思楼など、西側には考槃楼・西塾・南塾などあったが、明治以降、次第に失われていった。その後、咸宜園蔵書を補完するための書蔵庫や淡窓図書館が敷地内に建設され、現在は東側に秋風庵・遠思楼・書蔵庫(移築後修理)・井戸屋形・外便所が残り、西側に井戸が現存している。


f:id:rekiken9:20190910210658j:image

講堂(推定地){塾舎}

 講堂は、文政4年(1821)に秋風庵の北東に建築され、天保7年(1836)まで「東塾」と呼ばれた。後に寄宿舎「東塾」が完成し、塾舎は「講堂」と改称された。

 「講釈会読、皆此処に於いてする」と淡窓が記したように、塾主の講義や塾生らの会読(数人が集まって同じ書物を読み、その内容や意味を研究し、論じ合うこと)などの学習が行われていた。

 明治4年(1871)、第4代塾主廣瀬林外により、建築物の大改修が行われ、講堂も再整備されたと考えられる。その後、一時閉塾した咸宜園に代わって、新制学校である堀田学校の校舎として利用され、咸宜園末期には豆田尋常小学校の仮校舎として使用された後、破却された。

 発掘調査では、講堂の建築遺構は確認されず、規模も明確ではないが、「咸宜園図」(長岡永■画)では東塾(梁間2間・桁行4間)より一回り大きい瓦葺平屋で描かれており、表示の規模はこの絵図から推定したものである。また、和粛堂(秋風庵)と東塾の間に描かれている出入口から講堂につながる通路より、位置を推定した。


f:id:rekiken9:20190910210705j:image

東塾跡(寄宿舎)

 東塾は、咸宜園開塾の文化14年(1817)以降、入門者の増加に伴い、文政6年(1823)に建設が始められ、翌年に利用が開始された。当初「新塾」と名付けられ、後に「東塾」と改称された。主に遠来の塾生の寄宿舎として利用され、時折淡窓も塾生と共に寝起きしている。2階部分は「東楼」と呼ばれる場合がある。

 「咸宜園図」(長岡永■画)では、梁間2間・桁行4間の茅葺2階建ての建物として描かれており、発掘調査では、絵図と同規模の建物基礎地盤と見られる遺構が確認された。この灰土(火山灰質土)遺構は東塾建物の地盤改良の痕跡と見ることができる。建設当時、日田では淡窓の弟・久兵衛が中心となり、大規模灌漑工事である「小ヶ瀬井路」の整備が行われ、岩盤掘削等によって灰土が大量に出ていた。

 明治23年(1890)、咸宜園蔵書や淡窓の遺品が散逸することを危惧した門下生有志らによって、秋風庵の東に書蔵庫が建てられることになり、その原資として、東塾の売却益107円(当時)が用いられたことが書蔵庫棟札に残されている。



f:id:rekiken9:20190910210649j:image

咸宜園跡

 

遺跡名 咸宜園跡
住所 大分県日田市淡窓2丁目2−13
TEL  
年代  
指定区分 国史
駐車場