【島根県出雲市】一畑山薬師寺
法堂
法堂・・諸儀式専用
中央には、本尊である釈迦如来像、その脇侍には、右に達磨大師、左に大帝大師、そして、一畑寺世代と檀家先亡がお祀りしてあります。
この御堂は、文化四年(1807)に焼け同六年、九間六間の大堂が建立され現在に至っております。
医王山 一畑寺
一畑薬師教団の総本山であるこの寺は、臨済宗系の禅寺で、平安時代初期(894年)に漁師与市が赤浦海岸の海中より引き上げた薬師如来を御本尊として祀ったのが始まりです。また、この寺にお参りすると目の病がなおるとされ、古くから信仰の道場として全国から多くの信者を集め、現在も眼病治癒祈願の参詣者がたえません。境内には本堂のほか法堂・禅堂などが建ちならんでいます。
仁王像
仁王像
舎利弗尊者
舎利の子であるということから舎利弗と名付けたものと見えます。舎利は母の名、弗の字は子という字になります。父は底沙という婆羅門の大学者でした。彼は天性特に秀でて辯才多智の人でした。出家の身となり婆羅門教師の弟子となり、すべての羅漢の中での第一の智慧者でした。
尊者、舎利弗は、一切の智慧宝を成就し智徳を備え常によく教え、よく大法を讃嘆し大衆を導かれしも、後、病いに伏し涅槃に入り釈尊は舎利弗のために一塔を毘舎離城門外に建てられた。
注荼半諾迦
周利槃特尊者のこと。自分の名前を忘れるほど愚かで頭の悪い人だったと伝えられる。お釈迦さまは、一本のホウキを渡し「塵を払え 垢を除け」と唱えて精舎の掃除を命じた。ひたすら掃除を続け、ついに汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟ったと伝えられる。赤塚不二夫作「天才バカボン」の「レレレのおじさん」のモデルであるとも伝えられている。
魔訶迦葉尊者
大迦葉ともいう、一を聞いて十を悟る鋭敏な生まれつきでした。
出家の道を求め
「吾来る師はこの御方ぞ、この御方こそ真の悟り人にてまします。」
恭しく合掌礼拝して釈尊に伺い奉って弟子となり釈尊は、四諦十二因縁等の法を説き示され、そのみ教えを会得し八日目に羅漢の悟りを開くことを得たということです。
薬師如来は、正式には東方教師「薬師瑠璃光如来」といいます。東方というのは、太陽が昇る東の方、私たちが生きているときに救っていただける仏さまという意味です。
薬師如来は、修行中に「十二の大願」を打ち立てられました。特に第七の大願の「乘病悉除 身心安楽」がもっとも有名です。
薬師とは、七宝の一つでラビスラズリーのことです。如来の功徳に■えて「瑠璃の光」といいます。「如来」とは真理を悟った無上の仏さまのことです。
一畑薬師如来は、「目のお薬師さま」「子どもの無事成長の仏さま」として、「諸病の平癒」と「身心の健康」に霊験あらたかなご利益があります。
「一畑」とは、薬草畑の番号が語源とされ、古くから茶畑があり、そのお茶を境内の清水で沸かして薬師如来にお供えし、ご祈念をかけたのが「お茶湯」です。たいへん霊験あらたかなお茶です。
目とは、ただ肉体の目だけではなく、心の目も同時に表しています。目を開き、心を浄めて、お元気になってお帰りください。
薄狗羅尊者
薄狗羅は、善容という。意味は、その要望が特に秀でて美しかった為です。いたって無病健全な性質で、百六十才の長寿を保ち、教団中第一の長寿者でした。
自制心に徹底し別に説法はせず、不言の説法で有言の説法より以上に人を感化する偉大な力を持ち、また無欲な方で、滅後の今日に至るまでその徳は讃嘆されています。
阿■樓駄尊者
幼少より衆に秀でた容姿と風采との持ち主で、衆人の愛敬するところでありました。
常に善行をなし、功徳を積むことを楽しみ、盲目であるにも拘わらず、人のために衣を縫うことを楽しみ、その心持の美しさ、行為の殊勝さを感じさせる羅漢の一人であります。
魔訶劫賓那尊者
多くの弟子の中で、よく天文学に長じ、その天衆を知ることが、第一なるを以って「知星宿第一」の誉れを得ています。
ひたすら釈尊に出家を許されることを求め弟子に入ることが出来たということです。
迦留陀夷尊者
釈尊が、まだ迦毘羅国浄飯大王の太子の時の侍者として、お守役をつとめていた優陀夷のことです。
色が黒く醜い男でも、一度過ちと気付いたら再びその事をしないと特徴を持っていました。
人の本性は悪ならずと、羅漢の果を開き長所を発揮し、十六羅漢の一人となった人です。
賓頭盧羅堕尊者
幼少より聡明にして一種気高い風采をそなえていられました。
釈尊成道後、その弟子となり熱心に仏道を修行し、しばらくにして悟りを開かれたという。
しかし、よく釈尊説法中、遅刻する事が多く、途中からの入場をいましめられ、よく外で説法を聞いていたことから、後の世に像は寺院の縁などに安置され、体の病を癒してくださる方として敬われ、病気の人はその痛みのところを撫でて、賓頭盧さんの頭を撫でて病が癒るといい、それから「撫佛」と言うようになりました。
憍梵波堤尊者
生まれながらに足の爪が二つに割れ、牛に似ていたので釈尊の弟子となってからも「牛の生まれ変わり」と言われ、それを釈尊は憐れんで、タビをこしらえて用いさせらえたのです。
奇態な姿でも、釈尊は崇高な徳を以って人天の供養を受けるに足る第一人者とまでお褒めになりました。
離婆多尊者
離越尊者とも言われて、その出家については奇怪な伝説があります。
怪しい小鬼と大鬼とが争っているところ、小鬼の味方をしたため怒った大鬼が離婆多の一脚をひきぬき喰べながら去って行き、小鬼は気の毒に思って他の死体の足を一本抜き取って、離婆多の足の根につぎましたがその足が短く、びっことなり、世の中が味気なくこれを動機として道を求べき、釈尊のもとに詣出たということです。
魔訶目健連尊者
目達尊者のことで魔訶は梵語で勝れて大きいという事で、名の上にこの語をつけたのは、その徳のすぐれていたことを意味します。
学問が好きですべてを学び盡し、仏教の奥意を探らんと心を注ぎ佛弟子となり釈尊教団中の二大弟子と呼ばれるようになり晩年、悪徒によりめった打ちになり入寂なされた。「目連は死すとも真理は永遠に滅びず」と釈尊は仰せられた。
難陀尊者
心にもあらぬ出家沙門の身とはなりましたが、行乞するのに身に脂粉、身に美衣、左手に右手に鉄鉢足に革靴をはきながら愛妻孫陀羅の姿を木に彫り、常にふところにしていたということです。
後、最も重かりし愛欲を絶ち、よく心をおさめて、正念正智なる難陀になりました。
阿難陀尊者
阿難ともいいます。
少年時代に出家し美男子であり情にもろくとかく女性に関する噂がありました。
それはとにかく性情は同情友愛にあつく円満妥協心に富んでいて、釈尊の教団を平和円満にならしむべき、最も良き楔であったのです。
三十年間大法護持の大責任を宣伝布教と、この大法を末田地迦に伝え、年老いたる故に、恒河の中流に神通をあらわして、入寂したと伝えられています。
羅喉羅尊者
羅云とも呼んでいますが、釈尊の御実子であります。
年■もゆかないのに出家すると言うて父、釈尊はお喜びになり舎利弗を戒師となし目連に髪を剃らせて、出家させられました。
その性至って怒りっぽくありと言われたが、修養の功あらわれて、「忍辱第一の羅喉羅」と称えられるようになりました。
摩訶倶絺羅尊者
舎利佛の伯父でカラヒナカ村の人。釈尊にお会いして十五日目にして阿羅漢の果を聞いたということです。
彼は空理を悟り得たいというので、悟空尊者とも言われました。
頭脳明晰な人であって、言い表さんと欲するは、言い表しその思想発表の巧妙なことは類を見ないと、そこで四辯才第一の摩訶倶絺羅と称せられています。
魔訶迦旋延尊者
実の名を那羅陀と言って請い求めて釈尊の弟子になり、たちまち魔訶迦旋延の名は他の教団の大弟子と共に、人より人に伝えられるようになり、一代に於いて摩偸羅王や文茶王とを教化した事は最も有名であります。
おやじは寝るもの
求めすぎず、果報(しあわせ)を待ちなさい。忙しいばかりでは、本当に大切なものに気がつきません。「涅槃」とは煩悩の火が消えた悟りの心。目玉おやじも、涅槃の仏さまのポーズです。
少年時代の水木しげる先生にお化けや妖怪の世界を語って聞かせ、後年の妖怪漫画家・妖怪研究家への素地を作った「のんのんばあ」こと、景山ふささんは熱心な一畑薬師の信者でした。1926年、のんのんばあは、四歳のしげる少年を連れて一畑薬師にお参りしています。これら目玉おやじのブロンズ像が、その当時の道筋を示しています。
目薬の木植樹
日本国内のみに自生する。主に、標高700m付近に多く見られる。大きいものでは、樹高10mに達する。雌雄異株。葉は長さ5~13cm程度で、小葉からなる複葉。
本堂
寺名 | 醫王山一畑寺 |
住所 | 島根県出雲市小境町803 |
TEL | 0853-67-0111 |
本尊 | |
創建年 | |
駐車場 | 有 |
備考 |