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【島根県出雲市】鰐淵寺

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島根県出雲市鎮座の鰐淵寺
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仁王像
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仁王像
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推古二年(594年)智春上人が推古天皇眼疾を浮浪滝に祈って平癒されたので、その報賓として建立された勅願寺である。天竺(印度)霊鷲山の艮地が欠けて浪に浮かんで流されて来た土地で浮浪山と称す。上人密法を修し給う折、誤って碗の仏器を滝壺に落とされたとき、鰐魚が鰓にかけ浮かび上がったことにより寺号を生じる。

 伝教大師比叡山天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で最初の延暦寺の末寺となる。又、早くより出雲大社との関係を密にし別当寺ともなった。

 元弘二年(1333年)後醍醐天皇隠岐遷幸の折、長吏頼源が国分寺御所に伺候して、ご宸筆の願文(重要文化財)を賜った。永禄年間には和多坊栄芸が毛利元就の尼子攻めに助力したため、天正五年孫の輝元はこの栄芸の功労を愛で本堂を再建した。

 又、弁慶は十八歳で当山に入り、三年間修行の後書写山から比叡山に登ったと伝えられており、その伝説や遺品にも事欠かない。一方、二三.六三五坪の山内は自然に恵まれ、春は緑の香にむせび、秋は深紅になる「いろは紅葉」が全山を覆う。


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武蔵坊弁慶修行の地
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智春上人

 信濃の神僧智春上人は遊化して伯州北の浜まで迎えに来た智尾白滝旅伏の三翁の船に来たり旅伏山に着き「コゾノケフ 詠メシ月ハ カハラネド コヨヒタビフス 空ニ充カナ」と詠し翌日、現在の蔵王の滝にて釈迦文佛より命を受けて開山した。時に推古天皇二年(594)であった。
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八百屋 お七

 天和2年(1682)江戸本郷の火災の時、お七は若衆小野川吉三郎に出会い、激しい恋情を抱いた。お七は吉三郎が忘れられず遭いたい一心で、天和3年放火・火刑となった。

 吉三郎はこれを憐み、出家して、お七の遺骨と供に全国の寺院を行脚、鰐淵寺で行き倒れになったと伝えられる。
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頼源

 元弘二年(1332)後醍醐天皇隠岐遷幸の折、長史頼源は隠岐国分寺御所に伺候して、ご宸筆の願文(重文)を賜った。その後、六波羅西門の戦いに軍功を立て建武中興後は執達状(重文)を貰った名和長年等と力を合わせて南朝のために尽くしたが、貞治五年(1366)浄達上人への譲文(重文)を最後に歴史の舞台から退いた。
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根本堂(天台宗

本尊千手観音菩薩薬師如来推古天皇二年(594)信濃国の智春上人、天皇の眼疾を浮浪滝に祈って平癒されたのでその報賓として建立された勅願寺。平安初期伝教大師比叡山天台宗を開かれるといち早くその法門に帰依して日本で最初に比叡山の末寺となった。本尊は第三代天台座主慈覚大師の作。現在の建物は戦国時代、広島の毛利元就が尼子氏を攻めた際、栄芸法印を始めとして毛利氏に力を盡した為、孫の輝元が建てたものと伝えられる。
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根本堂
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銅鐘(重要文化財)総高 113.1cm

         口径 63.2㎝

寿永2年(1188)在銘の銅鐘もと鳥取県倉吉市大日寺上陀の鐘。当山で修行した武蔵坊弁慶が一夜のうちに伯耆大山寺から持ち帰ったとの伝説は名高い。

これにちなんだ「弁慶まつり」は毎年挙行される。


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銅鐘
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浮浪の滝

 

寺名 鰐淵寺
住所 島根県出雲市別所町148
TEL 0853-66-0250
本尊 千手観世音菩薩薬師如来
創建年 594年
駐車場
備考