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【大分県大分市】府内城

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天守

天守閣は厄16mの高さを持つ4層式建物で、壁には優美さを添える華灯窓が付けられ、上棟には鯱鉾瓦が葺かれていました。今は、天守台のみが当時の面影を偲ばせています。

②東之丸

藩主の御殿と三階櫓を含む5棟の櫓がありました。御殿は居間、湯殿、御台所、大広間、御茶所、老女部屋等、数多くの部屋に分かれていました。

③西之丸

本丸の西に位置し、櫓が4棟配されていました。『府内藩日記』から玄関・居間・書院・台所などの多くの部屋から成る建物があったと思われます。

④山里丸

寛永18年(1641)、城北の風光明媚な地に築山・泉水を設け、あずまやをもつ庭園を造り「山里」と名づけられます。松平氏の頃は、能の興行や節句の御礼などが催されていました。

⑤北之丸

城の西北に独立したように配置され、本丸を守るための砦として築かれたと考えられます。安政3年(1856)に藩校遊焉館が置かれ、教育の場へと移り変わります。

⑥宗門櫓

大手門をくぐると正面左に見える櫓で、外から見ると平櫓に、城内からは二重に見える建物です。安政元年(1854)に修築が行われ、大分大空襲から被災を免れ、築城当初の面影を残す数少ない建物です。

⑦人質櫓

本丸の最も北側に位置する二重櫓で、寛保3年の大火(1743)の際は焼け残りました。安政元年(1854)の大地震で損壊したため再築されますが、大分大空襲からは被災を免れ、宗門櫓とともに江戸時代の建築様式を伝える貴重な建物です。


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府内城は1597(慶長二)年、福原直高により築城が始められ二年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代わった早川長敏も1600(慶長五)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には、熊本藩加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長七)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1㎞、南北約1㎞におよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。

 荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に、城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたと言われています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。

 城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非達をとがめられて断絶しました。代わって1634(寛永十一)年、壬生城(栃木県)から、日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治四)年の廃藩置県まで、二万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保三)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は、再建されませんでした。

 1871(明治四)年十一月大分県が成立。翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正十)年二は、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和三十七)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和四十一)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和二十)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取り戻しました。

 城跡は旧状をとどめる堀、土堀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城跡公園として市民の憩いの場になっています。


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人柱お宮

 今からおよそ400年余り前、福原直高がこの地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害で工事が進まなかったことから、人柱を立てることになりました。「人柱の家族の者は、一生安楽に暮らせるようにする」というお触れに、上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱になりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。

 手前の階段を下った所、お堀に沿った天守台の下に■た祠があり、毎年3月18日に法要が行われています。


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冠木門

かつて西の丸と廊下橋の間には、冠木門(柱の上に横木を渡した屋根のない門)があり、この石は■の冠木門の礎石です。


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廊下橋

 松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。

 山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。

 復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。


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木下郁先生と上田保先生は、近代大分県が生んだ大政治家である。木下先生は名知事、上田先生は名市長として、其に四期十六年間引き続き公選され、予ねて豊かな郷土づくりと福祉社会の実現を政治の理念とした両先生は、密かに殷賑を極めた大友時代の再来を念じながら、戦後の民主的地方自治の確立、郷土大分の発展と福祉の向上に献身された。その間の業績は極めて顕著であるが、とりわけ戦災復興と世紀の大事業大分地区新産都の建設に当たっては、先見、独創、英断、清廉等天性の美質に加え、肝胆相照らす永年の親交により、県市一体、特有の政治力を発揮して、見事輝かしい新生大分の基盤を確立したその功績は誠に抜群であった。寛くこれを知る郷土では両先生退任の後も高く、その余徳を仰ぎ、深くその人を敬慕した。然るに昭和五十五年六月、上田先生は満八十五歳、木下先生は亦八十六歳の天寿をもって僅か旬日を置き相次いで溢焉として白玉楼中の人となられた。この不慮の不幸に遭った郷土の懸嘆は深く、巨星堕つと痛惜し、木下先生は地方自治六団体合同追悼式、上田先生は大分市名誉市民葬の礼をもって篤く袁憐の誠を捧げた。その後、期せずして銅像建設の議が起こり、有志相諮って直ちに期成会を結成し、広くは湖の協賛を仰ぐや、極めて順調に所期の目的が達成された。これに応え期成会はその製作を、斯界の耆宿、日本芸術院会員、日展理事長の富永直樹先生に起請した。爾来一年有余、巨匠の手になる芸術の香気深いこの傑作を両先生最もゆかりの地に建立し得たことは殊に意義深い慶事である。同座に並びたち、さながら郷土大分の繁栄と福祉を語り掛ける颯爽たるこの英像を、永遠に新生大分の薫り高い象徴としたいものである。
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木下郁先生の経歴

明治27年 宇佐郡安心院町にて出生

大正7年 東京帝国大学法科卒業

大正12年 ドイツ、イギリスに留学

大正15年 弁護士開業

昭和17年 衆議院議員

昭和20年 大分市

昭和27年 大分県弁護士会会長

昭和27年 衆議院議員

昭和30年 大分県知事以後四選され、昭和46年知事辞任

昭和46年 勲二等旭日重光賞を受賞

昭和55年6月19日逝去

従三位に叙せらる

享年86歳

 

上田保先生の経歴

明治27年 大分市大字畑中にて出生

明治45年 大分中学から法政大学に学ぶ

大正11年 弁護士開業

昭和22年 大分市長 以後四選さる

昭和33年 洗礼を受く 

昭和38年 高崎山自然動物園開設等の功により日本観光協会功労賞受賞

昭和49年 聖パウロ六世から聖大グレゴリオ賞受賞

昭和55年6月6日逝去 享年85歳


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遺跡名 府内城
住所 大分県大分市荷揚町4
TEL  
年代  
指定区分  
駐車場