【大分県大分市】大分県護国神社
由緒
大分県護国神社は、大分県初代県令(現在の県知事)森下景端が、国家のため尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その遺功を後世に伝えるために、明治八年十月十八日この松栄山に建てられた「招魂社」が創建(始まり)です。
先ず、明治七年の佐賀の乱と台湾出兵で戦死された方々に併せて、過ぎし明治維新の動乱の際戦死した勤王の志士(天皇に忠義を尽した方々)が祀られました。以来、西南の役・日清戦争・日露戦争等から大東亜戦争にいたるまでの戦没された四万四千余柱が祀られています。終戦後は殉職された自衛官の御霊も合祀されています。
昭和十四年四月「招魂社」から「大分県護国神社」と改称しました。その後、昭和二十年の終戦の年まで代々の県知事が神社の奉賛会長をつとめ、県民の奉賛を得てまいりました。創建当時は展望台の位置に社殿がありましたが、昭和十八年十月二十八日に現在の社殿が完成したことにより、遷座祭が行われました。
戦後の昭和二十二年、「大分県護国神社」は「豊霊宮」と改称しましたが、日本国が独立を回復した二十七年の九月、再び「大分県護国神社」と元の社号にかえりました。
昭和四十一年十月二十二日、大分国体にご臨席された昭和天皇・香淳皇后がご親拝遊ばされ、また、五十二年九月十六日には、天皇・皇后両陛下が皇太子・同妃両陛下御時にご参拝になりました。
ご鎮座以来、大分県守護の神・郷土鎮護の社、国の平和・家庭の幸せを祈る神々として広くご崇敬をあつめたいます。
三菱
九六式陸上攻撃機 二三型
全幅/25.00m
全長/16.45m
自重/5243kg
エンジン/三菱「金星」51型
空冷星型複列14気筒 1300馬力×2基
最高速度/416km/h
航続距離/6228km
乗員/7名
弾痕の鉄扉 第十二海軍航空廠 高城発動機工場
この「弾痕の鉄扉」は旧第十二海軍航空廠高城発動機工場第六工場の扉です。高城工場は昭和十七年に完成。第一工場から第七工場までありましたが、第六工場は飛行機のエンジンの検査、調整をする防音運転場で、頑丈なコンクリート造りの建物でした。昭和二十年三月十八日の初空襲以来大分市は終戦までの五か月間爆撃にさらされますが、高城発動機工場も
何回も襲撃を受け、鉄扉には米軍艦載機の機銃掃射による弾痕が無数にあります。今回高城工場で唯一残っていた第六工場が解体されることを聞き、関係各位のご協力により貴重な戦争遺構として当神社境内に移設しました。
弾痕の鉄扉
西南の役 警察官墓地
この「西南の役警察官墓地」は、明治10年(1877年)の西南の役に際して、大分県の治安維持にあたり殉職した警察官の墓地です。
大分県十等警部 藤丸 宗造
大分県警察官 藤丸宗造警部は、弘化2年(1845年)現在の臼杵市に生まれ、明治5年大分県捕亡吏となりました。西南の役が勃発。危険の中、現竹田市に進攻した薩摩郡の偵察任務に単独従事中、明治10年5月19日、現熊本県阿蘇郡高森町で薩摩軍に掴まり竹田市に護送されました。
監禁され寝返るよう執拗に拷問を受けますが、頑としてこれを受け付けず、明治10年5月23日、竹田市下木川原で「大分県警部 藤丸宗造は、喜んで義のため死に就く。人民保護の魂塊となって宇宙に返るのだ」と言い残して斬首され殉職しました。その遺体は竹田市内西光寺に埋葬され、その後、現在地に移されました。また、臼杵市大橋寺にも分葬されています。
藤丸警部の壮烈な洵義の精神は、警察官の鑑として県警察史の上に、今もなお燐として輝いています。
東京警視隊
東京警視隊は、西南の役の際に東京警視庁が組織した警察官部隊です。薩摩軍との戦闘で殉職した103柱が、ここに永眠しています。
拝殿
神社名 | 大分県護国神社 |
住所 | 大分県大分市大字牧1371 |
TEL | 097-558-3096 |
御祭神 | 戦没者四万四千余柱 |
創建年 | 1875年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |