【北九州市小倉北区】菅原神社
本社、天満宮と号し、小倉城主小笠原忠真公特に尊崇深く、慶安元年二月大いに祠宇を改造し社領を附し、神宝数品を奉納して、城下民の繁栄を祈る。寛文元年二月忠真公更に、拝殿を建造し和歌を奉納し、盛大なる祭典を行う。
貞享四年二代藩主忠雄公社殿を現今の地に遷し本殿、幣殿、拝殿を新たに建立し、社前に浮鷲の池を造る。
明治維新、神仏分置の制となり、菅原神社と改称す、明治十三年六月散在神社五社を合祀す。
右大臣・菅原道真公は延喜元年(901)四月二十五日大宰権帥として京都より太宰府へ左遷され、筑紫へ向かわれる途中、神嶽川のほとり、とある小島に一休みされ、風光明媚な企救の浦を賞でられた跡と伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び一祠を建立したのが始まりです。-今に「天神島」との地名を遺している。-以後幾百星霜、この地の変遷とともに、その時々の人々の篤い信仰をうけ、農業・漁業・商業・産業また交通の神々を祀る末社を配し、小倉府内(城下町)の氏神として信仰を集め、明治十三年六月、国策によりこれらの末社(吉野社ー古船場・松尾社ー紺屋町・厩戸社ー紺屋町・生目八幡神社ー鍛冶町・高住神社ー鍛冶町)を合祀し、今日に至っています。
神社の歴史
ここ小倉の地は、古来交通・軍事上の要衝の地である為、各時代を通じて幾多の抗争の場となり、南北朝期には中・小豪族の抗争戦国期には島津・大友・毛利氏の抗争の場となり、特に大友宗麟はこの小倉の地を焼き払ったと伝う。しかしながら「本社」は庶民の天神信仰に支えられ、その度に再建された。慶長七年(1602)一月細川忠興が小倉城築城の砌り、一小祠となっていた「本社」を瀧本院と共に配祠し、城下民の信仰をすすめ、さらに寛永九年(1632)二月小笠原忠真が十五万石の藩主として入城後、夫人永貞院の尊崇特に厚く、若君(二代藩主忠雄)の養育に学問の神・菅公の教訓を以って当たったことにより、忠真は慶安元年(1648)二月に社殿を修築し、神宝を納め、公式に城下民子女の「教育祈願所」と定め、次いで寛文元年(1661)二月には拝殿を増築し、「威徳寺」の尊号と扁額を奉納し、この年九月二十五日には特に盛大な祭典を執行した。改めて国守となった二代藩主忠雄は、幼少よりの成育の願解をなし、以来「若君」の養育祈願は累代に及び、城下民もこれに習い子女のすこやかな成長を願う城下民の「養育守護」の神としても信仰を集めた。
当時、神社においては春の例祭は「菜の花祭り」と称され、菜の花の生花を捧げる行事が行われ、城下民の子弟は手習師匠に引率され、礼儀正しい参拝がなされた。
幕末に至り、慶應二年(1866)八月一日の戦火ーこれを小倉では「御変動」と称している。-で小倉の町共々焼失したことに加え、明治初年の「神仏分離の制」の混乱で、神苑の維持も困難となり、御神体は一時、仲津郡国分村(現在の京都郡国分寺)に遷座されたが、明治二十五年(1892)九月、当時の初代小倉市長吉沢直行・初代企救郡長津田維寧外十数名の熱心な請願をきっかけとして、全小倉の氏子・信徒の手に依り旧社地に立派に再建され(神社棟札記)さらに現社殿は昭和三十七年に再建された。
この様に、ここ小倉の天神島に千数十年前当時の村人の手に依り祀られて以来、神社は現在まで小倉の地に生きた人々と共にその盛衰を経て来た。
神社名 | 菅原神社 |
住所 | 福岡県北九州市小倉北区古船場町1−6 |
TEL | 093-521-9421 |
御祭神 | 菅原道真公、豊日別尊、水分尊、大山昨命、景清霊、市寸島比売命、豊總耳皇命、木花咲耶姫命、宇迦之魂尊、猿田彦命 |
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社格 | |
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御朱印 |