【北九州市小倉北区】篠崎八幡宮
楼門
蛇の枕石(夜泣き石)
八雲社のお導きにより、荒れ狂っていた大蛇も蛇渕で静かに暮らしていた。年頃となった折、美しい女蛇と出会い恋におちてしまった。ある日、女蛇は貴船神の急の使いにより大蛇のもとを去った。大蛇は恋しさに、紫川左岸の蛇渕(現在の木町付近)の大石に毎夜現れ、その石を枕にして「女蛇恋し」と大声で泣いた。八雲社の御祭神のお導きで、大蛇は竜神となり天に昇った。人々はその石を「蛇の枕石」「夜泣き石」と呼び、この事が遠近に伝わって「安穏祈願」「恋愛成就」「子供の夜泣き封じ」等として崇敬されている。
昭和四七年、木町より八雲社のお祀りしてある当神社境内に遷された。
蛇の枕石
力石由来記
神功皇后が三韓から凱旋の時、筑前の宇美で皇子を御安産され、翌年穴門(長門)の豊浦宮に御向かいになる途中、鷹尾山の山頂(当神社を宮尾山に遷座する前の場)にあった大石(力石)の上に皇子(後の応神天皇)をお立たせ、遥かに菊の長浜や文字ヶ関を望み、群臣を顧みて、「穴門は近し」と御懐かしみなさった。敏達天皇の御代、この故事に基き鷹尾山の麓に神社を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀られたのが篠崎八幡神社の起源である。
その後、仁明天皇の御代、現在の宮尾山に御遷座なさり、この大石を「子安成長」「立身出世」の御利益のある霊石「力石」として崇敬される。
力石
御由緒
明和二年(1765)小笠原四代藩主忠総公が加茂別雷命を勧請され、続いて播磨国安志藩から養子に入られた五代藩主忠菌公が、品田和気命、市寸島比売命を相殿に勧請す。九代藩主小笠原忠幹公が文久二年(1862)に篠崎神社大宮司川江直種に命じて、別殿を造立、賀茂宮を祭祀された。その時忠幹公が額を奉納した。
御神徳
篠崎八幡宮摂社の加茂宮大神様は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、縁結・安産・子育・交通安全・厄除など、人々の暮らしを守る神様です。また、主祭神「賀茂別雷命」は「雷神」であるともいわれ、雷は「神鳴り」のことであり、古来より「若」「雷」「龍」の存在であり、大切な作物をすくすくと成長させる霊力を発揮するなど、若々しいエネルギーを秘めた龍神様です。「恋愛」「子育」「学業」「仕事」など、人々の活力向上・運気隆昌(龍昇)の社として、信仰・崇敬されております。
築250年を超える木造建築「賀茂宮社殿」の御案内
1400年以上の歴史をもつ篠崎八幡宮社殿は、昭和四六年の御造営を含め、合計七回あったとされております。現賀茂宮社殿は、昭和四六年の現篠崎八幡宮の再建に際し、神明造の八幡宮本殿を賀茂宮本殿、入母屋造の八幡宮幣殿を賀茂宮拝殿とし、現地に正面を南向きに移築しております。本殿は弘化(1844~)頃、拝殿は宝暦十四年(1764年)のものであり、現在銅板葺でありますが、茅葺、瓦葺など幾度の茅替えや修繕を経て現在に至っております。
昭和四六年以前(※境内絵図)は、三間社神明造の篠崎八幡宮本殿と一間社流造の賀茂宮が並立し、それぞれの本殿の前に入母屋造・桟瓦葺の幣殿が建っていました。両殿の間の縁を共有。八幡宮幣殿の前面には割拝殿が建ち、桁行七間・梁間三間、入母屋造、本瓦葺でありました。八幡宮幣殿右側面と賀茂宮幣殿左側面からそれぞれ板敷きの廻廊が■折に続き、八幡宮では拝殿に繋がっておりました。
平成二三年、その長い歴史と共に刻まれた社殿の著しい老朽化、また、日本文化としての木造神社建築の後世への伝承、そして、この社殿に宿られる篠崎八幡宮・賀茂宮の大神様への感謝を祈念し、改修御造営工事を行いました。
「雲竜殿 賀茂宮」新生「和」「巧」「雅」「彩」「艶」を羽織る
平成ニ三年十二月十日改修御造営された「雲竜殿賀茂宮」社殿は、日本文化を代表する神社建築としての佇まいは勿論ですが、また違う顔も持っており、細工・装飾にそれぞれ意味とドラマが存在しております。
一、稲光を浴びる
篠崎八幡宮唯一の漆調蘇芳色に、蟇股・木鼻・手挟み・垂木などに至るまで施された金色は、雷(稲妻)の神々しさをイメージ
二、ざわめく雲竜
その稲妻によって起こる、ざわめきと波紋をイメージさせた、国内初、蘇芳色と移植の「秘術 雲竜」
三、天と地の轟
支輪の彫刻は、天と地、雲と紫川をイメージしており、「赤黒 雲竜」のざわめきから轟きへの変化を、どよめく雲と、水しぶき波立つ紫川、共に稲光の金を帯び、さらなる力強さを表現。
四、唸りと畏れの雲竜
この龍神の出現の唸りと畏れを表す「雲竜」柄と、一閃の黄金の煌めきの「雷光」格子とが重なり合うとき、神々しさにつつまれ、一つの小宇宙が生まれる。まさに「雲竜殿」と呼称するにふさわしい荘厳感。
拝殿前面の折り上げ格天井は、今にも龍神が現れるのではなかろうかと憶える装飾が施された、国内初、神社建築日本唯一の「秘術 雲竜柄折上格天井」。
五、拝礼
これらのドラマを経て、拝殿から幣殿・階、そして本殿の御扉に至るまでの漆黒の一筋と金の装飾を望み、賀茂宮の大神様への畏敬の念を起こさせます。
賀茂宮
この古墳群は、紫川下流域左岸の篠崎八幡神社が鎮座する低丘陵上に築かれた古墳群であり、3基の円墳があったことが知られています。
第1号墳は、昭和44年(1969)に北九州道路(現・北九州都市高速4号線)紫川インターチェンジ建設に伴って発掘調査が行われました。墳丘は直径約13m、高さ3m、埋葬施設である主体部は単室、横穴式石室を築造していましたが、すでに天井石や側壁の一部は失われていました。現在、石室は篠崎八幡神社境内に移築し、復元保存され、古墳の内部の様子を見ることができます。副葬品には須恵器(短顎柑・高坏・杯)や鉄製品(鏃、矛、刀子)のほか、ガラス製小玉や耳環などの装身具などが出土しています。また、死者を納める棺床が2か所あることから、少なくとも2人が葬られていたと思われます。最初の埋葬は6世紀の中ごろです。
第2号墳は、移築前の1号墳の南側にあり、直径8m、高さ1mの円墳で、内部構造などは分かりません。
第3号墳は、神社本殿のすぐ北側にあり、墳丘は本殿が建設された際に半分程度削り取られています。直径は約30mあり、市内でも最大級の円墳ですが、内部構造など詳しいことはわかっていません。
紫川中下流域には、本古墳群や東宮尾古墳群、砥石山古墳群などの群集墳の他、蒲生寺中古墳や今町古墳のような単独の古墳も所在し、弥生時代も含め古墳時代にかけて多数の墳墓が確認されています。
拝殿
神社名 | 篠崎八幡宮 |
住所 | 福岡県北九州市小倉北区篠崎1丁目7−1 |
TEL | 093-561-6518 |
御祭神 | |
創建年 | |
社格 | |
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駐車場 | |
御朱印 |