【佐賀県神埼市】後鳥羽神社
後鳥羽神社創建由来
人皇八十二代後鳥羽院の帝は高倉院第四皇子にして諱名を尊成親王と申す。元暦元年御年四歳にして高位に臨み萬世一系の宝祚を継ぎ給えり。御在位十五年にして譲位あり、以後院を執り給う。世にこれを後鳥羽院の院政と称せり。上皇資性英邁豪毅文武の道に優れ給い和歌は古今の名手自ら刀鋤を鍛え給えり。
時に鎌倉幕府あり兵馬の権を剥奪して専横の振舞有り。上皇この事を嘆き給うこと甚だしく承久三年夏秘かに官軍を召し給えり。北条右京之介義時この事を知り、舎弟時房其子泰時をして関東軍二十万騎を率いしめ都を指して攻め上りける。六月五日合戦ありしが官軍利を失って引き退き関東軍洛中に乱れ入る。
茲に於て上皇後鳥羽院御出家あって承久三年七月十三日隠岐之国刈田郷なる避村に御遷幸、憂き歳月をぞ送り給えり。
警固の士に西河座エ門太夫家房なる者あり。上皇秘かに御遷幸ある可き由勅命あり家房鎌倉六波羅えの聞こえ憚り有りと思え共、父祖重代の天恩辱けなきことを思い勅命に応え奉り、此国神崎郡の山中絹巻の里もまた家房因縁の地にてありければ教信寺を修復して■の皇居となし家房供奉し奉りて御遷幸を仰ぎ奉る。
かくて上皇この地に聖賀を停め給い数年の星霜を過し給いけるが延応元年二月二十二日宝算六十歳を以て崩御あり。教信寺の後、小高き峯に葬り奉る。今に伝えて後鳥羽院山稜と称するは即ち是也。この事伝え来たりて既に八百年の歳月を過ぎたり。誰かよく其真偽を証し得んや只先人古老の口碑に学び遺訓を奉じて尊崇以て現在に至る。
側を流れる川
本殿
神社名 | 後鳥羽神社 |
住所 | 佐賀県神埼市脊振町鹿路 |
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