【山口県下関市】功山寺
功山寺境内に経つ土蔵造りのこの建物は輪蔵(経蔵)と呼ばれ、五・四五メートル(三間)四方、面積二九・七平方メートル、屋根は宝形造り桟瓦葺で、中央尖部瓦の露盤には、蓮弁様縁取枠内に一文字三つ星の毛利家紋が浮彫りされている。
また、入口の向背(幅一間)は軒下位置に切妻照り破風で正面向きに取り付けてある。
輪蔵内部は、中央に八角形の回転式経庫を備えており、経庫には奥書のある一切経の教本が納められ、経庫を一回転させれば一切経の全部を読踊したのと同じ功徳があるともいわれている。
このような『輪蔵』は、中国に始まる禅宗寺特有の形式であるが、当寺の輪蔵は、寛政十一年(1799)に長府藩第十一代藩主毛利元義公が藩祖秀元公百五十回忌の供養として建立、経本千六百冊を納めて寄進したもの。
本市におけるその希少性と、長府藩にかかわる郷土史的意義から貴重な遺産として市文化財に指定されている。
功山寺輪蔵
国宝(建造物)
功山寺仏殿
鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。
見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧棰は天井中央より放射状に配置され、扇棰とも呼ばれています。また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。
さらに全面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。
この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものと見られています。
功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安三年(1650)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています。
仏殿
高杉晋作像
曹洞宗。嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の興廃をみた。
その後、慶長七年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗した。二代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応二年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定、十代藩主国芳の時、当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩薩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる宝篋印塔、五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、境内地(付 伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。
木造地蔵菩薩半跏像
地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒仏が出現するまでの間、衆生を救済する菩薩であるとされ、平安時代におこった末法思想が盛んになるにつれ、地獄からの救済に対する民間信仰と結びつき、最も庶民に親しまれる仏像となりました。
この像は蓮華座、指先、持物が後補であるほかは、ほとんど損傷もなく当初の姿を良く残しています。樟材の一木で頭、体部を作り、両袖から先を矧ぎつけています。また、両手首を柄差しし、膝前は別材で矧ぎつけています。
体躯は奥行きが浅く、両肩の線もなだらかで、両脚の厚みも少なく、ボリューム感を押さえた平安期の特徴を良く示しています。
顔は目、鼻、口とも小ぶりで、柔らか味のある穏やかな表情であり、全体に平安末期の都風な表現を典型的に示した仏像といえます。
本堂
寺名 | 功山寺 |
住所 | 山口県下関市長府川端1丁目2−3 |
TEL | 083-245-0258 |
本尊 | |
創建年 | 1327年 |
駐車場 | |
備考 |