【山口県下関市】東行庵
東行庵
この地は清水山と称し幕末の頃奇兵隊軍監山縣狂介(有朋)は麓に草庵を建て無隣庵と名付けていた。慶應三年(1867)四月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)は黒髪を断って出家したので、山縣は明治二年(1869)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。
現在の庵は明治十七年伊藤博文・山県有朋、井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもので、梅処は明治四十二年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。
昭和四十一年東行の百年祭を機に庵の原型をとどめるため大修理を行った。
東行庵
国指定記念物(史跡)
高杉晋作墓
高杉晋作(号・東行)は天保十年(1839)八月二十日、長州藩士高杉小忠太(家禄二百石)の長男として萩城下に生まれました。藩校明倫館に学ぶ一方、松下村塾で吉田松陰に師事。文久二年(1862)には幕府貿易視察団に加わり清国上海に渡り、ヨーロッパの半植民地と化した街を見て大変な衝撃を受けました。
文久三年六月、下関を外国艦から防備するため奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外でも「志」があれば入隊を許した画期的な軍隊でした。
元治元年(1864)八月には、四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理にあたり、また同年十二月には長府功山寺で挙兵し、藩論を討幕路線に統一しました。さらに、下関開港・薩長同盟締結などを推進。慶應二年(1866)には、奇兵隊などを指揮し、長州再征軍を小倉口に撃退しました。
慶應三年四月十四日、下関で結核のため病没、奇兵隊陣営近くの吉田清水山に埋葬されました。二十七年と八ヶ月の短い生涯でした。
高杉晋作墓
高杉東行(晋作)顕彰碑
高さ3.2m 巾1.5m
従二位公爵毛利元昭公毫額
この碑は明治四十四年この山上に建てられ同年五月、井上馨公によって除幕された。動けば雷電の如く発すれば風雨の如しという名文に始まって東行の残した業績がよく書いてあり、字は明治の三筆といわれた杉孫七郎のものである。
高杉晋作顕彰碑
高杉晋作像
遺跡名 | 東行庵 |
住所 | 山口県下関市吉田町1184 |
TEL | 083-284-0211 |
年代 | 明治時代 |
指定区分 | |
駐車場 |