【福岡市中央区】福岡城跡
(伝)潮見櫓(県指定文化財)
福岡城に50近くあった櫓の一つです。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築されました。
潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられています。
潮見櫓
下之橋御門(県指定文化財)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋、下之橋、追廻橋にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、同20年に二層櫓門として復原しました。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下■の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが明らかになりました。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で検討されたものです。これは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本家を採用しました。
下之橋御門
福岡城は慶長五年(1600)筑前に入国した黒田長政が翌六年から七年の歳月をかけて築城したものです。城は東西に長い■郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。その面積は四十八万平方メートルにおよび、昭和三十二年に国史跡に指定されています。
この記念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)年三月に起工し、同年十月に竣工したことが判明しています。
その後、大正七年(1918)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払下げをうけ、その末寺である北九州市八幡東区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。その際の棟札によると大正九年に竣工しています。さらに昭和五十八年(1983)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされました。また、その間の昭和三十二年八月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。
大正初期の移築前に撮影されたと推定される写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明しています。
祈念櫓
三の丸(松ノ木坂)
福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しました。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓がありました。
城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、内郭部分で41万㎡(福岡ドーム6個分)の広さを誇った偉大さを今も感じることができます。城下の武家屋敷までを含めると246万㎡(福岡ドーム35個分)もの広さを持つ、日本有数の広大な城です。
現在地は三の丸の「松ノ木坂御門跡」へ続く入口にあたり、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくルートのひとつでした。ここ三の丸には、藩主を支える家老たちの屋敷群がありました。
本丸(表御門跡・祈念櫓)
二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。表御門は大正7年(1918年)に、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)に移築され、現在まで同寺の山門として使用されています。
また、本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860年)起工、同年10月に竣工したものです。
この櫓は、大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、北九州市八幡東区大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられています。1,2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。
福岡城の特徴として、47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、現存しているのは本櫓のほか、国指定史跡の多聞櫓や解体保存中の潮見櫓など数えるほどとなっています。
本丸
本丸は、藩主が政務を行うとともに、住居として使われた「本丸御殿」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。
天守台への入口となる「鉄御門跡」が残っていますが、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上に櫓や塀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡があり、やはり狭い門となっています。
定説では福岡城には天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており、「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。
天守台跡
遺跡名 | 福岡城跡 |
住所 | 福岡県福岡市中央区城内1 |
TEL | 092-711-4666 |
年代 | 江戸時代 |
指定区分 | |
駐車場 |