【福岡市博多区】金隈遺跡
弥生時代の墓と金隈遺跡
死者の眠る家
弥生人が葬られた墓は、墓穴に直に遺体を納める「土こう墓」や、長方形の穴に木製の棺を安置し、その中に遺体を納める「木棺墓」、石の板で囲って遺体を納める「石棺墓」、そして、大きなかめに遺体を納める「かめ棺墓」などがあります。弥生時代のかめ棺はおもに成人用の棺として使われました。子どもは日常の生活で使われていた小さなかめに納められることが多かったようです。
金隈遺跡の墓
金隈遺跡では、土こう墓が最も古い墓と考えられます。土こう墓には、庭をさらに1段深く掘り込むもの、一方の壁に横穴を掘るもの、木の板でふたをするものなど、様々なかたちがありました。また、棺は残っていませんでしたが、木棺墓と考えられる墓もあります。そして、弥生時代前期の後半ころ(約2300年前)からのちは、かめ棺墓が主体になります。
かめ棺墓が最も多く作られたのは、弥生時代中期(約2200~2000年前)です。かめ棺墓の配置を注意深く観察すると、大人と子どもの墓で構成されるいくつかのまとまりがあることがわかります。かめ棺墓は中期のおわりにかけて減り、それ以降はわずかに石棺墓がつくられるにすぎません。金隈遺跡は弥生時代のおわりころ(約1800年前)まで、墓地として使われていたと考えられます。
墓からみる弥生時代
金隈遺跡にほど近い、弥生時代前期はじめ(約2400年前)の天神森遺跡(博多区)では、成人用の土こう墓や木棺墓が2列に整然と並んで発見されました。これは当時の社会的ルール墓に反映されたと考えられます。
弥生時代前期のおわりから中期のはじめころ(約2200年前)になると、青銅器や玉類などの副葬品が納められた墓が現れます。これは、集団を率いるリーダーの誕生を示しています。板付遺跡(博多区)や吉武高木遺跡(西区)では、副葬品が納められた墓が一定の範囲に集中して発見されました。このような墓地を「特定集団墓」と呼ぶこともあります。
いまから約2100年前、弥生時代の中期はかめ棺墓の最盛期です。このころになると、わずかな墓を溝や盛り土で区画した墓地が見られるようになります。奴国の王墓とされる須玖岡本遺跡(春日市)では、1基のかめ棺墓から26面以上の銅鏡をはじめ、多くの青銅器や装身具などが発見され、当時の社会に大きな格差がうまれていたことがわかります。このような墓は「特定個人墓」と呼ばれています。
多数の青銅器に代表される豪華な副葬品を持つ墓が登場する一方、その他の墓から副葬品が発見されることは稀になりますが、金隈遺跡にほど近い上月隈遺跡(博多区)では、弥生時代中期後半頃のかめ棺から、1本の銅剣が発見されています。この銅剣とともに葬られた人物は、金隈遺跡に葬られた人々を含む集団のリーダーだったのでしょう。
金隈遺跡の発見
いま、みなさんがいるのは福岡市の南東部、標高約29mの丘の上です。ここは2000年以上前の弥生時代の墓地でした。
昭和43(1968)年の春、道路工事中にかめ棺と人骨が見つかりました。金隈遺跡発見の瞬間です。その後、3回の発掘調査を行った結果、それまで謎のベールに包まれていた弥生人の一端が徐々に明らかになってきました。
発掘調査の成果
金隈遺跡では、約2400年前から1800年前の、およそ600年にわたって、かめ棺墓348基をはじめ、土こう墓119基、石棺墓2基の合計469基もの墓がつくられました。
これらの墓からは、136体におよぶ人骨のほか、貝輪や石製の小玉、かめ棺墓に供えられた小形の壺が発見されています。
金隈遺跡の価値とは
金隈遺跡は、ほぼ全体を発掘することができたため、北部九州で弥生時代に作られた典型的な墓地のすがたを解明することにつながりました。
ここで発見されたかめ棺は、時間的な形状の変化を途切れることなく確かめることができるため、遺跡の年代を測る「ものさし」としても利用することができます。また、かめ棺の中からは状態のよい多くの人骨や貝輪が発見され、弥生時代に生きた人々のすがたや、ほかの地域との交流を研究する上で貴重な資料となっています。
このように、弥生人の起源や社会を研究するうえで重要な遺跡であることから、金隈遺跡は国の史跡となりました。
甕棺墓などが発掘調査されたそのままの形で残る
人骨も本物
遺跡名 | 金隈遺跡 |
住所 | 福岡県福岡市博多区大字金隈観音浦39 |
TEL | |
年代 | 弥生時代 |
指定区分 | 国史跡 |
駐車場 | 有 |