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【大分県豊後大野市】菅尾石仏

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国指定史跡 菅尾石仏

重要文化財 菅尾磨崖仏

 

良質な岩壁に現された、人の技術と祈りの世界

 崖を彫って造られたとは思えないほど立体的な磨崖仏。その丸くふくよかな姿からは平安時代に流行した、仏像づくりの技術と加工に適した石がこの地に多くあったことを知ることができます。

破損の少ないお姿は、歴史的、美術的価値が認められ、国史跡、国重要文化財の二重指定を受けています。

 像は向かって左から千手観音、薬師如来阿弥陀如来、十一面観音、毘沙門天と続き、正面の4体が裳懸座と呼ばれる台の上にあぐらをかいて座り(結跏■坐)、右側には毘沙門天が立ち姿で現わされています。

この菅尾磨崖仏は、平安時代の終わりごろ(およそ800年前)豊後武士団として有名な緒方三郎惟栄らの一族によって作られたといわれています。

長くこの地域で守られてきた石の仏ですが、その存在が中央に知られるようになったのは、大正時代のこと。一部の学者がすべて石で造られていることを疑ったほど完成度の高い磨崖仏でした。

 

五所権現と神仏習合

五体の像は、紀州熊野の諸神が仏の姿として現れたと(五所権現)とされており神仏習合時代の産物であることがわかります。現在では、明治時代の神仏分離令により五所権現は別の祠に祀られていますが、地元では今も権現様と呼び親しんでいます。

・千手観音=「那智大社熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)」

薬師如来=「新宮大社、熊野速玉之男(くまのはやたまのかみ)」

阿弥陀如来=「本宮大社、家都御子神(けつみこのかみ)」

・十一面観音=「若宮社、若一王子(にゃくいちおうじ)」

毘沙門天=「米持金剛童子(めいじんこんごうどうし)」

 

火砕流火砕流が冷えて固まった石(溶結凝灰岩)

9万年前におきた阿蘇山からの大火砕流は、石橋などに使用する強く固まった石のほかに、比較的弱く固まり加工に適した石も生み出しました。

火砕流が高温で大量であったため、いったん溶けてから冷え固まったことで、このような現象がおきたと考えられています。


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三重町観光十二名所

菅尾石仏と六字名号

 

平安時代に造られた石仏は、国指定史跡・重要文化財である。尊顔は春の若葉、秋の紅葉の色を映して美しい。巨大な磨崖六字名号は黙和尚の雄渾な筆跡であり、参観者を圧倒する。


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菅尾磨崖仏は、豊後大野氏三重町にある磨崖仏で、今から9万年前、巨大噴火を起こした阿蘇火山より到達した大量の火砕流が冷えて固まった「阿蘇溶結凝灰岩」の岩壁に彫られています。

 向かって左より、千手観音菩薩坐像、薬師如来坐像阿弥陀如来坐像、十一面観音菩薩坐像、毘沙門天立像と5体の仏像があり、その配置から熊野の神々を勧請した熊野五所権現といわれています。

 彫刻はおしなべて美しく、円満相と呼ばれるふくよかな面貌や、やわらかく丸みを帯びた肩、そこから流れる納衣の表現など、平安時代中期より流行した定朝様式をほうふつとさせることから、平安時代の終わり頃の作として、当時、絶頂を迎えていた豊後節団、大神一族の頭領、緒方三郎惟栄らが造顕に関わったと考えられています。

 石としては比較的やわらかく彫刻に適していたと思われる弱溶結凝灰岩に彫られています。一体一体の仕上げがとても丁寧で崖に彫り込まれた仏像とは思えない出来栄えであったため、鬼が作ったとする伝説が地域で語り継がれてきました。

 露天の崖にこのような上質の彫刻が生み出されるのには、高度な技術を持った仏師の存在と、その仏師を当地に呼び天然のアトリエでの作業を支えた豊後節団の存在、さらに、その繊細で美しい彫刻を実現可能にした、阿蘇溶結凝灰岩の存在、これら3者の存在が不可欠でした。

 この菅尾磨崖仏は、この地だからこそ生まれたここでしか、見る事のできない彫刻。自然、歴史、文化の最高傑作なのです。


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向かって左より、千手観音菩薩坐像、薬師如来坐像阿弥陀如来坐像、十一面観音菩薩坐像、毘沙門天立像
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千手観音
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薬師如来
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阿弥陀如来
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十一面観音
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毘沙門天
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水霊石

宇対瀬地区には、むかしからこの石が下に落ちると、大洪水に見舞われて、地区が泥水に流されてしまうといういい伝えがある。大野川河岩であるため大雨を警戒したのであろう。


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水霊石
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菅尾の文化財

 

菅尾石仏

石段を登りつめると五尊像の偉容に思わず息をのむ。ほとんど丸彫りに近く、高さは1・8~1・9米。円光、舟形の二重光背で裳懸座に座し赤色顔料が施されている。現在も権現様として信仰されているのは五尊像が紀州熊野の五所権現を勧請したとされるゆえんだろうか。平安後期の作と推定されているが欠損もなく900年間当時のままの面影を残していることに驚きと畏敬の念をもつ大分県の代表的な磨崖仏である

 

六字名号

智福寺跡の岸壁に「南無阿弥陀佛」の六字が彫られている。高さ十二米、白鹿山妙覚寺黙首座の筆跡で仰ぎみる人を圧倒する。宝暦三年(1753)から二ヶ年かけて完成した。

 

智福寺跡

岩屋寺とよばれ創立は不詳。境内には鎌倉期の不動尊を祭る不動堂、上、中段には室町期の宝塔、西国三十三所観音像、十王像、一石五輪塔、印塔が数多く建立されている。

 

中世森迫氏墓地

中世森迫氏の菩提寺であった回春庵(現公民館)の裏の台地上に一族の墓碑とみられる宝塔や印塔が多数群在している。館内には古月の寺額や観音像が安置されている。

 

森迫石幢

回春庵の敷地内(現公民館)に建立されている。幢身の銘から天正六年日向耳川の合戦で討ち死にした森迫鎮富の三回忌の供養のために妻が建てたものである。現在判読は不可能

 

虹潤橋

三重川にかけられた石造アーチ橋。この地は江戸時代三重郷の年貢米一万石を運ぶのに最も難所であった。そこで三豪商が私財を投じ四年間の歳月をかけて完成させたものである。

 

的場石幢

台地上に吃然と建立されているこの石幢は総高2・4米。円形の笠、中台、エンタシス状の幢身と非常に均整のとれた美しい石幢である。明応二年(1493)の造立で市内最古の紀年銘をもつ

 

有田石幢

有田の道路沿いに建てられているこの石幢は的場石幢と同じ様式、技法で同一石工との説がある。明応二年(1493)や逆修塔の銘があり総高2・4米

 

細長繁栄記

江戸後期から明治初期まで繁栄した細長港の様子を記した高さ1・6米、巾75センチの石碑。起案難波氏、文竹内節三氏、筆田口母山氏。この石碑から先、細長港跡までは竹藪となり通行困難。

 

中世墳・塔

標高249米の大辻山は史跡だけでなく春のサクラ、夏のアジサイ、秋のモミジと市民憩いの場。山頂には十数基の円塚があり、その上に三、四、五、六角形の石塔婆(1596~1603)二十二基が建立されている。

遺跡名 菅尾石仏
住所 大分県豊後大野市三重町浅瀬401
TEL  
年代 平安時代末期
指定区分 国史跡、国指定重要文化財
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