【福岡県宮若市】犬鳴ダム
司書の湖
この湖は「司書の湖」です。名称の由来は、犬鳴谷にゆかり深い筑前福岡藩家老「加藤司書」にちなんで命名されました。「加藤司書」は、江戸時代末期の人物で、当時日本は外国の圧力により揺さぶられ、福岡藩も軍備の拡張と近代化が迫られ、大砲などの武器製造に取りかかりました。そのために鉄が必要になり司書は、長門地方の製鉄技術を学び安政元年(1854年)犬鳴字金山に鉄山を築き、石見国の職人を導入し犬鳴谷の豊富な木炭を利用して鉄を造らせました。さらに、福岡城は、海に接していることから有事に備え藩主をかくまうために元治元年(1864年)犬鳴谷に御別館(山城)の建設を始め翌年に完成しました。その当時は福岡藩でも勤皇派と佐幕派に大きく別れ抗争を繰り返しており、勤王派の中心的役割を持っていた司書は佐幕派の讒言により慶應元年(1865年)10月に切腹させられました。
この犬鳴谷に建設された犬鳴ダム湖の名称は一般公募の結果、3■歳の若さでこの世を去った加藤司書の功績をたたえ末永く司書の名を残すために「司書の湖」と命名されました。
草枕 夜ごとにかをる■りにも むすぶを■じ 古里■夢
犬鳴ダム全景
湧き水スポット
水車小屋
大正13年から犬鳴に水車小屋がつくられ、水車の動力によって線香の粉を製造していました。原料はタブノキが使われていました。建物としては、母屋と水車小屋、乾燥小屋がありました。
犬鳴焼窯跡
犬鳴字皿山にあり、ダム西側に1号、東の対岸に2号計2基の窯跡が発掘されました。鷹取焼の系譜をひくもので、伝説によると高原五郎七が焼いたともいわれています。
犬鳴分校跡
犬鳴に犬鳴分校がありました。明治18年に犬鳴小学校として創立し、大正9年吉川尋常小学校と合併になり、犬鳴分教所となりました。昭和41年に吉川小学校に併合され、廃校となりました。
庚申像
謎の看板
木炭窯跡
渓谷の入口にある、木炭を焼いた窯跡です。窯の基礎は石で築かれており、ショウジという煙突が一ヶ所、地下に排水溝をもっています。窯前の広場にスバイ小屋(素灰を集めた作業所)などがありました。ここで白炭という硬い木炭を焼いていました。
庚申像(享保年間)
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タタラ谷の谷入口にあり、製鉄の地下施設が発掘調査されました。犬鳴の記録に江戸時代中頃に■谷で鉄を製していたとあります。タタラとは製鉄の事をさす言葉です。
ちくしなる 犬鳴川の 怒るとも 鎮めてダムは みちたたへたり