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【山口県下関市】中山神社

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山口県下関市鎮座の中山神社
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「さざれ石」

学名 石灰質角礫岩

岐阜県指定天然記念物

 

わが君は千代に八千代にさざれ石の

いわおとなりてこけのむすまで

 

この歌は今から約千有余年前の古今集の古歌で藤原石位左衛門の作と判り、上一句を替えて国家君が代の原歌となりました。

愛石の郷土史家小林宗一(号宗閑)は適々史跡探訪中に岐阜県春日村で「さざれ石」を発見して国家発祥の地を証しました。

歌も石も日本文化の粋、大和と弥栄永続とを寿ぎ記念するもので国家としても、将又祭神の御遺徳にも相応しいものです。

この度、■くも御神縁を被り、下関偕行会の幹旋を得て、左記下名が奉納しました。
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さざれ石
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国指定史跡

中山忠光

 

中山忠光は、幕末に国事に奔走した尊攘急進派の少壮公家。弘化二年(1845)四月、中山忠能の七男として出生。安政四年(1857)従五位下に叙せられ、同五年、侍従に任じられた。また、万延元年(1860)には、甥にあたる睦仁親王(のち明治天皇)に祇候した。

 若年時から諸藩の志士たちと交わる。特に、文久二年(1862)以降は、国事御用掛に任じられた父・忠能の許に出入りする武市瑞山久坂玄瑞・吉村虎太郎・真木和泉等の尊攘急進派と交際し、次第に尊攘公家の代表的な存在となっていた。

 文久三年(1863)二月、十九歳の若さで国事寄人に任じられたが、三月の攘夷祈願の賀茂行幸に供奉したのち、下関での攘夷戦に参加するため、官位を辞し、京都を脱して来関した。竹崎浦の白石正一郎邸に寄宿し、五月には久留米に赴き、獄中にあった真木和泉を救出した。六月、吉村虎太郎等と帰京し、孝明天皇の攘夷祈願のための大和行幸を画策。また、この攘夷親征に呼応するため、古村虎太郎・松本奎堂等と天誅組を結成し、八月十七日に大和五条で討幕の兵を挙げた(天誅組の変)。しかし、八月十八日の政変により孤立し、十津川で幕府軍の討伐を受け敗退。その後、下関に落ち延び白石家に潜伏したが、長府藩により幽閉され、藩内各所を転々とした。

 禁門の変、下関戦争、その後の第一次長州征伐により尊攘運動が挫折した元治元年(1864)十一月、幽閉先の田耕村杣地(豊北町)で長府藩保守派により暗殺され、この地に埋葬された。享年二十歳、のちに明治新政府から正四位を贈られた。
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中山忠光
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白雲木の歴史

 嵯峨浩命が愛新覚羅溥傑様と結婚するに当り貞明皇后より御召出しあり拝謁を賜り励ましの御言葉を頂くと共に下賜の品々を頂戴致しました。

その中に白雲木(宮廷木とも言う)の種子三粒あり、特に此の種を満州の新居に植え此の木と共に彼の地に根を降し日満両国の為に蓋す様努力せよとの御言葉を賜りました。その種を満州は気候が荒いので苗にしてからと浩命の祖母浜口いと子様が之を自宅(現 タイ国大使館目黒区上大崎)に植え発芽に成功、之を育てましたが遂に満州に渡る事無く苗木は日吉の嵯峨家に引取られ、毎年五月に見事な白い花を付けて居ります。その子供を此の地に移植しました。
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中国親善の為に

ふた國に永久の

むすびの 

かすがいに

なりてはてたき

我がいのちかな

愛新覚羅 浩
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宝物殿
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御祭神

愛新覚羅浩命

愛新覚羅溥傑

愛新覚羅慧生命

 

愛新覚羅社 由来記

 

 愛新覚羅家は中国大陸清朝の直系にて、溥傑命は清朝最後の皇帝宣統帝(後に満州国皇帝)となられた溥儀皇帝の弟君であります。

 溥傑命は日本の陸軍士官学校恩賜の軍刀を授けられ、又陸軍大学をも卒業された文武両道に優れたお方でありました。戦後は中華人民共和国全国人民代表大会常任委員及び全国政治協商会議常任委員として中日国交回復及び両国友好に尽力されました。

 浩命は公家の中でも名門の嵯峨侯爵家の長女として誕生され、日本国と満州国とを結ぶ親善結婚として溥傑命に嫁がれたのであります。しかし、戦後は満州国の崩壊逃避行、文革の嵐と様々な経過を辿られ、まさに昭和史いや世界史を一気に走り抜けたお方でありました。

 慧生命は溥傑命と浩命の長女として誕生され名前は溥傑命がお付けになられました。学生時代中日両国の架け橋として自ら中国語を学び周恩来首相に直接父親と一緒に暮らしたいと訴えた手紙を出され、そのことが溥傑命の特赦へつながったのであります。

 しかし、運命の成せる業が天城山にて不慮の事故に遭遇されたのでありました。

 以上当社は愛新覚羅家三柱を青松不断の地に奉祀し大陸に向かい中日両国の友好を永遠に念じつつ御霊は安く穏いに鎮まり給える。
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愛新覚羅社
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中山神社由緒記

中山忠光朝臣命は、弘化二年四月十三日従一位大勲位中山忠能の五男に生れ、明治天皇の御生母中山一位局は姉君であり、従って忠光朝臣命は明治天皇の叔父にあたる。

忠光朝臣命は忠誠の気質に富み、皇室の式微を嘆き武門の専横をいきどおること一層熾烈であった。文久三年八月天忠組の主将として大和義挙により明治維新の鴻業の端緒をつくられたが、幕府軍の為に敗走して下関に足を止め、勤王の志士と交り大いに活躍中、元治元年十一月八日夜、豊北町田耕字長瀬に於て俗論党の兜手に倒れ、悲惨な最期を遂げられた。当神社松林まで運び密かに埋葬した。後に此を奇兵隊が探知して当初、木の墓標を建てた。慶應元年十一月豊浦藩は墳墓の上に社殿を造営し英霊を祀ったのが当神社の創立である。その後、忠光朝臣命の精神は多くの勤王の志士を奮い立たせ明治維新の大業は遂行されたのである。

墳墓は社殿右側の丘に有り、旧満州国皇第一族を祀る、愛新覚羅社と宝物殿は左側に有る。
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神門
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拝殿
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本殿

 

神社名 中山神社
住所 山口県下関市綾羅木本町7丁目10−8
TEL 083-253-0704
御祭神 明治天皇中山忠光朝臣命、天照大御神
創建年 1917年(合祀)
社格  
建築様式  
駐車場 有 
御朱印