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【福岡県福津市】宮地嶽横穴式石室古墳

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福岡県福津市宮地嶽神社境内にある
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宮地嶽横穴式石室と奥之宮不動神社

 

 当不動明王は宮地嶽巨石古墳に鎮座されています。

巨石古墳とは「横穴式石室古墳」で寛保元年(1741)宮地山が鳴動(地震)し、その口が開きました。

以来、あまりに荘厳な墳墓からか、修験者たちが不動明王をお祀りしました。そこで、当社の不動明王は岩屋不動とも称され篤い信仰を頂いております。

 この古墳は玄武岩を5~6m四方の大きさに切りだし、十三個を左右上下に組み合わせて作られた石室を持ち、全長は23mを誇る日本一の大きさで、古墳時代の終焉6世紀~7世紀にかけて建立されたものです。

 古墳内部からは三百数十点余りの宝物が出土、瑠璃(ガラス)壺や黄金の鐙、黄金の天冠、特大金銅装頭椎大刀等、特に豪華絢爛な20点が国宝の指定をうけています。この様な所から地下の正倉院とも称され、同時代の奈良・飛鳥の石舞台の主である蘇我馬子公の墳墓よりも規模が大きい事から、ここ北部九州一帯を治めた埋葬者の絶大なる権力を垣間見る事が出来ます。

 宮地嶽の眼下には玄界灘の島々が見渡せ、白砂青松の海岸には日本一奇麗な夕陽が沈みます。「相ノ島」はそこに位置しています。この相ノ島こそ、海人族・阿曇の聖地です。そして宮地嶽古墳の巨石は、この相ノ島から切り出された玄武岩ですし、相ノ島の積石古墳と同質の石です。

 阿曇の祖は磯良公と申され芸能の祖とも言われています。その末裔には磐井の戦で名を馳せた「つくしの磐井」が居ます。そして宮地嶽古墳には阿曇の人々に繋がる九州王朝の長が祀られています。そんな「つくしの磐井」に繋がる「つくし舞」明治初年頃まではこの古墳内部で舞われていましたが長らく途絶え、昭和五十八年に当社にて再興・伝承されています。
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この拝殿内に石室がある
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石室内は内部写真撮影不可のため外観のみ
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六百俵の碑
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六百俵の碑

 

 徳川時代の半ばごろまで、ここ宮司村は、砂混じりの痩せた農地が多く、常に水不足に悩まされるなど、農家は苦しい生活をせまられていました。

 しかし、村民は互いに助け合い、農業のほか、わら細工製造等に励むかたわら、11歳以上の村民総出で溜池(林口池)を造って水不足の解消に努め、年貢米はいつも一番に納めたことです。

 また、天明5年(1785年)の大飢饉の時も、宮司村だけは年貢米の返上を願い出ず完納しました。

 このようなことから、時の藩主は宮司村を他村の模範として表彰し、寛政2年(1790年)褒美として米六百俵を贈りました。

 村民は、この栄誉を後世に永く伝承するとともに、村の繁栄を願って、褒美の一部をもって村内の出生児に産着を贈ることとし、現在もこの習わしが続けられています。

 大正8年(1919年)、これら先人の偉業を讃えるため、記念碑が建てられました。
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宮地嶽神社本殿

古墳名 宮地嶽奥の宮古
住所 福岡県福津市宮司元町9−16
築造年代 6~7世紀
型式 円墳
大きさ 石室全長23m
石室 横穴式石室
駐車場 有(宮地嶽神社駐車場)
備考