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【九州四十九院薬師霊場】2番 豊前国分寺

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福岡県豊前市豊前国分寺
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史跡 豊前国分寺

 

 国分寺奈良時代聖武天皇の勅願(741年)により、全国の国毎に設置された国立寺院です。僧寺と尼寺の二院制がとられましたが、当時各地で病気が流行し、不作が続く中で、仏の力にすがって平安な国家にしていきたいという願いが込められていました。

 豊前国では豊津に国府がおかれていたことから、この錦原台地の東端に寺地が選定され、国府の役人であったが国司が中心になって建立が進められました。記録からの推定では、完成までに約十五年ほどの年月を費やしたことがうかがえます。ここは僧寺の跡ですが、尼寺はここから真東に200mほど離れた丘の上に建てられていました。僧寺の伽藍は南門・中門・塔・金堂・講堂・鐘楼・回廊などが南を正面にして、方二町(216m四方)の寺域の中に配置されました。尼寺はふつう塔が省略され、規模もやや縮小された形といいます。

 国立寺院であるため、両院とも国家からは手厚い保護を受け、僧尼の生活や寺の維持には田や封戸が与えられました。そして当時の先端技術の枠を結集して造営された国分寺は、建物の先進性はもとより仏教の教義を広める意味から、その地方の文化の中心的な役割も果たしました。

 しかし、この国分寺も、奈良時代後半ごろからの律令政治の崩壊や新興の天台・真言密教におされて存在意義もうすめられ、早くも衰退の一途をたどりました。このような情勢にあっても豊前国分寺はどうにかその命脈を保ち続けて久しく、天正年間(1573年~1591年)に大友宗麟の兵火にあって、すべての伽藍が焼失したと伝えられています。

 江戸時代になって僧の英賢・円慶によって復興が始まり、さらに尊応・応忍・等汰に引継がれて、元禄年間(1688~1703年)には塔を除く主要な建物がほぼ完成したと伝えます。

 明治時代に宮本孝梁師は塔の建立を発願され、多くの人々の寄進を得て、明治二十八年(1895年)に三重塔の完成をみました。塔は層塔と多宝塔を折衷した様式をもち、昭和三十二年には県の文化財の指定をうけました。その後老朽化の進んだ塔は、昭和六十年から二年にわたる解体修理で再び明治の建立当時の姿によみがえりました。

 寺域は昭和五十一年に国の史跡に指定されましたが、豊津町が史跡公園として整備する際の発掘調査では、創建当時の講堂跡をはじめ軒丸瓦・軒平瓦・■・陶磁器片などが出土しています。
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豊前国分寺 三重塔 一棟

 

 国分寺境内に聳え立つ三重塔は、明治二十九年に竣工した木造の層塔で、九州における築百年を超える古塔の希少例でもあるとして、昭和三十二年、福岡県の文化財に指定されました。

 この塔は明治期の建立だけに、伝統を踏まえつつも建立者の工夫や創意を交え、新時代を反映する造作にもなっているとのことで、その特色や見どころは次のようなものとされています。

①初層部分が大きく間取りされ安定感がある。宝塔との折衷を意図した様式と考えられ、建立時の塔の名称も「明治記念(大)宝塔」としている

②二層の丸桁部分に十二宮(星座)が浮彫されるが、これは宝塔を大日如来(宇宙の主)の三麻耶形(=シンボル)とする真言密教の世界観を表現する意図がうかがえる。これに対し内部(初層)は伝統・通俗的な福寿吉祥の彫刻で飾られる。

 

 なお、この塔は建立は勿論、昭和六十二年の解体修理も地元豊津町(当時)を超えた範囲の多くの方々によって完成しており、みやこ町の枠を超えた地域のシンボル「みんなの塔」として末永く大切にされる文化遺産であることが期待されています。
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豊前国分寺三重塔

 

 豊前国分寺は、奈良時代天平十三年(741)聖武天皇の勅願により、全国六十余国の国ごとに建立された国立の寺院の一つである。

 従って、国家の平安を祈る道場であったが、同時にまた、豊前の国の学問や文化の中心としての重要な役割を果たすものであった。

 平安時代中期以降、律令制度の崩壊の伴ない寺勢は次第に衰えつつもなお命脈を保ち続けていたが、天正年間(1573~92)大友氏の兵火によってすべての堂塔が焼失したと伝えられている。

 復興は、英賢・円慶二僧に始まり、本格化は慶安三年(1650)以降の尊応・応忍・等汰三僧の努力にまたねばならなかった。元禄年間(1700年頃)に塔を除く現在の寺観をほぼ完了した。

 明治十九年、時の住職宮本孝梁師が三重塔(明治記念塔)の建立を発願し、十年の歳月をかけて明治二十八年末に完成した。昭和二十七年落雷のため大破、堂四十年の修理にもかかわらず、その後も老朽化が進んだので、昭和六十年豊津町は根本的な解体修理による復元を計画。県の補助金と全町民をはじめ周辺の市町村・各種企業・団体及び有志の方々の寄付を得て、総工費二億円をかけ昭和六十二年五月修復工事を完了した。

 解体修理にあたっては、明治建立時の忠実な際現に留意した。塔の形が三重塔と多宝塔を折衷する特異な様式になっているのはそのためである。屋根瓦は特に、境内から出土した天平時代の大宰府系瓦を復元して使用した。

 この三重塔は、奈良時代豊津の地に国府国分寺が設置され、この地が豊前国府政治・文化の中心であった往古を象徴する建造物である。
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三重塔
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石造仁王像
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加持祈祷道場
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本堂

 

寺名 豊前国分寺
住所 福岡県京都郡みやこ町国分280
TEL 0930-33-3967
本尊  
創建年 741年
駐車場  
備考