歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【九州西国三十三観音霊場】18番 観興寺

f:id:rekiken9:20200322140231j:image

福岡県久留米市の観興寺
f:id:rekiken9:20200322140241j:image

山本山 観興寺

 

 山本山普光院観興寺は曹洞宗名刹で、天智天皇の御代、白雉年中(650年頃)草野太郎常門が豊後国串川山(現日田市)に狩りをし、榧(かや)の木の霊木を得て、これで千手観音の像を彫刻し、それを本尊として当山を開基、伽藍堂坊三十六坊を建立したのが始まりといわれています。

 特に天智天皇により「普光院」の勅額を賜ったほどで、境内の小池から、太宰府の都府楼と同じ「観興寺」の銘の入った布目瓦が出たことがあり、草野氏の信仰と当時の隆盛がしのばれます。

 寺宝としては、千手観音の霊木にまつわる鎌倉後期の作と伝えられる「観興寺縁起」二幅があり、重要文化財として指定され、現在国立博物館に保存されていますが、同寺には、天保十一年(1840)に描かれた写図があります。
f:id:rekiken9:20200322140209j:image

籃胎漆器の元祖

近藤幸七翁の碑

 近藤幸七 竹細工師

嘉永七(1854)年~昭和十六(1941)年

 

 幸七翁は、山本村(現・久留米市山本町山本)に生まれ住み、竹籠編みの名手で、箕斎(きさい)と号した。晩年は失明したが、その後に編んだ花籠にさえ寸分の狂いもなかったほど、練達の技の持ち主であった。

 三十歳ごろ、山川村(現・久留米市山川町)で酒造業を営む風流人の豊福勝次を介して、有馬藩の御用塗師であった川崎峰次郎(1838年~1904年)のために籠を編んだ。峰次郎はこれに漆(うるし)を塗装して「籃胎漆器」を創製した。幸七の竹籠編みの技と、峰次郎の漆塗りの技とが出会ったことにより、後に言う「久留米籃胎漆器」が誕生したのである。

 幸七・峰次郎の手になる籃胎漆器は、明治二十八(1895)年の京都での博覧会出品を期に全国的に有名になり、明治三十二(1899)年には、時の皇太子(後の大正天皇)巡幸の際に献納され御嘉納の栄に浴した。さらに、明治三十七(1904)年の米国セントルイス万国博覧会でも銀杯を受賞するなど、美術工芸品としての評価は不動のものとなった。

 この碑石は、碑文に記されているように、恩師に報いるため、多くの門弟により、大正十四(1925)年、翁の生前墓として建立されたものであるが、昭和三十八(1963)年、墓地整理の際に顕彰碑に改彫され、観興寺境内に再建されたものである。
f:id:rekiken9:20200322140222j:image

本堂
f:id:rekiken9:20200322140147j:image

 

寺名 観興寺
住所 福岡県久留米市山本町耳納2128−1
TEL  
本尊 千手観音
創建年 白雉年中(650年頃)
駐車場  
備考