歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【九州四十九院薬師霊場】38番 水堂安福寺

f:id:rekiken9:20200329074808j:image

佐賀県白石町の水堂安福寺
f:id:rekiken9:20200329074820j:image

水堂安福寺の宝塔

 

 石で護岸された二十基壇に立ち、高さは2・3m。安山岩製。筒状の塔身は上端が細く、四面には花頭形の輪郭中に薬研彫りで金剛界四仏の種字(東面・阿閦如来、南面・宝生如来、西面・阿弥陀如来、北面・不空成就如来)を刻む。

 屋根上端に一段の造り出しを設けて露盤の代わりとし、軒は四隅が強く反り返る。相輪上下の請花は、蓮弁を枡形に造る。

 基礎東面の銘文は風化が著しいが、「元応元年 己未」と年号が読み取れる。鎌倉時代後期の元応元年(1319)の造立で、町内で最も古い石造物の一つであるばかりではなく、県内でも最古の銘文を持つ宝塔である。相輪の宝珠・請花、屋根、基礎の一部に欠損が見られるものの、当初の姿をよく留める貴重な宝塔である。

 安政三年(1856)の『杵島郡須古郷図』(佐賀県立図書館所蔵)には「平清盛石牌」とあり、重盛の父清盛に関係する宝塔とされている。

 安福寺と清盛・重盛など平氏との直接の関係を示す史料はないが、仁安二年(1167)に清盛に大功田として肥前国杵島郡他が与えられたこと、また同寺所蔵の安政三年書写の『當山霊水略縁記之事』には、重盛が安福寺の霊水を病の床にある高倉天皇に捧げたことが記されており、これらのことから、清盛や重盛に関する宝塔とみなされるようになったのであろう。
f:id:rekiken9:20200329074658j:image

宝塔
f:id:rekiken9:20200329074740j:image

水堂安福寺由来書

 

 霊水略縁記によりますと、「奈良時代聖武天皇の頃(西暦725年)の、ある日のこと、猟師が一匹の白鹿を見つけ、射止めたところ、鹿は金色の光りを放って消え失せました。猟師は不思議なこともあるものだと思いながら、その姿を消した跡を探しますと、不思議は更に不思議は生んだのであります。今猟師が放った矢は見事石の観音様に突き立っていたのです。この様子を見た猟師は『ああ、殺生の恐ろしさ』とばかり、これまでの行いを悔い改め、名を法弓と改め、そこに安福寺を建立して、それ以来強い念仏三昧の行者となって、ここに水堂開山の礎を作ったのであります。

 その後平安時代(西暦1170年)高倉天皇が御病気を召されたある夜のこと、『九州肥前の国日輪山中に霊水あり、それを服すれば病もたちまち平癒あらさんか』と夢の中で観音様のお告げがありました。天皇はさっそく、この頃杵島の領主小松内大臣平重盛公に霊水の献上を命じられました。重盛公は直ちに人を遣わし、その霊水を高倉天皇に献じたところ、不思議にも御病気平癒され、天皇は大変御感心になったそうです。その後、天皇の命令で、水堂安福寺に七堂伽藍(七つの大きいお堂)六十六坊(六十六のお堂)を日輪山の中腹から麓に建立され、ここに水堂安福寺の霊場は完備したのです。天正二年(西暦1574年)正月須古合戦の折り、竜造寺隆信は平井経治の行方を探す為、やむなくこの由緒ある建物の大部分を焼き払いました。

しかし信者はその後も依然として年々増加してゆき、宝永四年(西暦1707年)には鍋島茂明の力添えによって、本堂その他が再建されました。

 毎年旧暦の四月十五日から七月十五日まで出水法要が厳修されますが、水堂に詣でる人々は塔婆を供え、或いは回向を頼まれ、新しい仏ばかりでなく、ご先祖の供養をし、水まつりをして、霊水を受けてかえられます。
f:id:rekiken9:20200329074719j:image

厄除不動の滝
f:id:rekiken9:20200329074616j:image

霊水堂

 観世音菩薩を中心に左右に三体づつ、六地蔵が安置されています。観世音菩薩の下より、霊水が出ます。この霊水を求めて期間中は県内外より信者の方々がお参りされます。六地蔵の前に新しい仏様の戒名や先祖代々を塔婆に書き、お供えされます。


f:id:rekiken9:20200329074635j:image

観音堂

水堂の境内の中で中心となるお堂です。宝永4年(西暦1707年)に建立されました。屋根は葦葺きで、戸は昔ながらの鎧戸です。


f:id:rekiken9:20200329074751j:image

境内から筑紫平野

寺名 水堂安福寺
住所 佐賀県杵島郡白石町大字堤3144
TEL 0952-84-3033
本尊 聖観世音菩薩
創建年 平安時代
駐車場  
備考