【福岡県久山町】斎宮
福岡県久山町の斎宮
当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、神教を祈願された霊蹤の地であり、つぎのような由来を伝えている。
第十四代仲哀天皇は、仲哀八年己卯の春、神功皇后と御一緒に熊襲征伐のため、筑紫の香椎宮に行幸啓された。そのとき皇后に熊襲の服せざるは新羅の後援なれば本幹たる新羅を攻め給わば、支葉の熊襲はみずから枯れん」という神のおつげがあった。しかし、仲哀天皇は神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、失敗されて香椎宮に帰られ、翌年十二月病気で崩御された。
皇后は非常にお嘆きになったが、密かに御屍を納めになり、喪をかくして賊徒征伐の業をお継ぎになった。
そうして、香椎宮から群臣百僚を率いて小山田邑(上山田)に行啓され、御住居になったところが、聖母屋敷で、聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、皇后みづから神主となり、六所神を祀り、三月朔日から七日七夜戦勝の祈願をなされた。神々の御加護により国内も治まり、三韓も戦わずして平定された。
皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は慶長年中大洪水で破損したので、村民は非常に恐懼して聖母屋敷に合祀した。この社の跡を「ろくしゅう」と言って六所田(神田)の中に今も社跡が残されている。
なお、境外神社として審神者神社があるが、祭神は中臣鳥賊津使「日本書紀」の神功皇后の祈願に際して中臣鳥賊津神使を喚して審神者とす、とある。審神者とは神の託宣を請うて、その意を伝える人である。
この社は、慶長三年まで六所の社殿のあった六所神と向かいあい両社の間に建造物を禁止されたいたという言い伝えがある。また、一般に「おやしろさま」と呼び勝買の神様とされている。
これらを総合して考えてみると二千余年の古宮跡はそれぞれしっかりと上山田の地に刻まれて、神功皇后の御偉業とともに千古に朽ちないこと物語っている。
この由来記の裏面に斎宮に係わりのある上山田邑の古図も掲載しているので参照されたい。
神功皇后は『古事記』『日本書紀』に登場し、日本史上はじめて朝鮮半島へ出兵したと伝えられる人物です。『日本書紀』巻第九神功皇后(気長足姫尊)の章には、夫である仲哀天皇がお亡くなりになられた香椎宮、応神天皇をお産みになられた宇美八幡宮とともに斎宮のことが記されています。
『日本書紀』によると神功皇后は仲哀天皇が香椎でお亡くなりになると小山田邑に斎宮を造らせ、自ら神主となられています。この斎宮の故地について、江戸時代の学者貝原益軒が『筑前国続風土記』のなかで次のように述べています。
「聖母屋敷 上山田村にあり。其所に神功皇后の御社あり。是 神功皇后斎宮の跡なるにや」「此山田村は、香椎に近ければ、此村にある聖母屋敷こそ、まさしき斎宮の跡には侍るへき」
ここ山田の地に鎮座する斎宮は、日本最古の国史に記載された「小山田邑 斎宮」の此定地とされる神社です。千数百年の間、人々に深く信仰され大切に守られてきました。
町内には、六所宮跡や審神者神社など神功皇后にゆかりの深い神社や、神功皇后を描いた絵馬などが多く残っています。
拝殿
本殿
審神者神社
「日本書紀」の神功皇后紀には「皇后の祈願に際して中臣鳥賊津使主を喚して審神者とす」とあります。審神者とは神の神託を受けて、その意を伝える人のことです。中臣鳥賊津使主をお祀りしているため審神者神社の名がついています。おやしろさまとよばれています。
この神社は、慶長三年(1598)まで六所に社殿のあった六所大明神と向かいあっていました。両者の間に建物を建てることが禁じられていたと伝えられ、その言い伝えは現在も守られています。
審神者神社
六所宮跡
六所宮は慶長年間(16世紀末)までこの地に鎮座し立派な社殿があったと伝えられています。『筑前国続風土記拾遺」によると祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男命・豊受大神・■々杵尊・軻遇槌命。現在、六所宮は六所大明神として斎宮の境内に祀られています。斎宮に移された理由としては、天正年間に兵火に焼かれたからだとも、川のそばに立地し、洪水の心配があったからだともいわれています。六所宮が移された後、この地は神田とされ今でも六所という地名が残っています。
江戸時代、黒田家は天照皇大神宮(伊野皇大神宮)を内宮と呼び、豊受大神を祀った六所宮を外宮として尊びました。六代藩主黒田継高の時には、田虫除として粕屋郡に一本だけ下賜された伊勢御田扇が納められ、今も斎宮に大切に保管されています。
六所宮跡