【東京都台東区】浅草神社
御由緒
推古天皇の御代三十六年(628)三月十八日、漁師の檜前浜成と竹成の兄弟が浅草浦(現在の隅田川)で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。兄弟も不思議に思いその尊像を奉持して今の駒形より上陸し■の切株に安置しました。
当時、郷土の文化人であった土師真中知に一見を請うた所、土師氏はこれぞ聖観音菩薩の尊像であることを兄弟に告げました。その後、土師氏は自ら剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音様を奉安し供養護持の傍ら郷民の教化に生涯を捧げました。いわゆるこれが浅草寺の起源となります。
土師氏が没した後、浅草寺の創始者・浅草発展の功労者である三人を三社権現と称し神として祀ったのが三社権現社(現浅草神社)の始まりとなります。明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同六年に現在の社名に至ります。
今もなお、「三社様」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのように呼ばれています。
御社殿
現在の御社殿は慶安二年(1649)に徳川三代将軍の家光公に寄進をされた社殿となります。
本殿並びに幣殿、拝殿とを渡り廊下で繋いだ権現造りです。二度に渡り社殿の修復が施され、昭和二十一年に国宝建築物に、更に昭和二十六年には重要文化財に指定されております。
正保元年(1312)に三社の神話に基き始められた『舟祭』が起源と云われています。
昔の祭礼は町内若衆によって本社神輿を担ぎ廻る事はなく、舟祭の行事が中心であり、又江戸時代には各町より出された山車が夫々の趣向で絢爛さや豪華さを競っていました。
現在は本社神輿三基を始め、町会神輿約百基が浅草の町を練り歩く勇壮なお祭です。また、びんざさら舞の奉納や神幸祭など様々な神事が行われます。
浅草寺本尊示現会では古式に則り当社の本社神輿三基を浅草寺本堂外陣にお上げし、一夜奉安致します。一之宮、二之宮、三之宮が本堂階段を昇る様は、荘厳かつ優美で見る者を圧倒します。
神仏分離以前の観音様と呼ばれていた三社祭の一部を再現し、五月の例大祭「三社祭」へのプロローグとなります。
明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音様を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿の間に「石の間」(幣殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
拝殿
神社名 | 浅草神社 |
住所 | 東京都台東区浅草2丁目3−1 |
TEL | 03-3844-1575 |
御祭神 | 土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命 |
創建年 | |
社格 | |
建築様式 | 権現造 |
駐車場 | |
御朱印 |