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【福岡県大野城市】平野神社 絵馬堂


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『信州、川中島の戦い』 1893年明治26年

 

戦国時代の末期、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信信濃の領有をめぐって争い、信濃北部の川中島の地で前後5回に亘って戦いを交えた。この5回の合戦をまとめて『川中島の戦い』と言い。この絵馬は永禄4年(1561年)9月 第4回目の合戦の様子です、この時の戦いは、10日間にも及ぶ最大の激突であったと伝えられています。中央に馬上から長い太刀を振るって切り込む上杉謙信とそれを軍の扇で迎え撃つ武田信玄の一騎打ちの場面が描かれています。

 


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西南戦争』制作年代不詳

 

左右の絵が一対となって奉納されている絵馬です。征韓論に敗れた西郷隆盛は、明治10年(1877年)すでに官職を辞し鹿児島にいた。一方彼が創立した私学校の生徒が決起して、政府の機関である火薬庫、造船所を占拠し運搬中の陸軍の武器、弾薬を強奪した。これをきっかけとして両者の関係は益々悪化し、ついに2月15日、西郷隆盛が兵を動かして西南戦争が始まった。『西郷動く、、、』の報がもたらされるや、福岡、熊本、大分などでも不平士族が参戦して、戦争はたちまち九州全土に広がった。以後9月24日の西郷隆盛の自刃に至るまで、およそ7か月に亘って各地で戦が繰り広げられるのだがその模様がこの左側の絵馬に描かれている、橋上の兵士は右側が薩摩軍、左側が政府軍。左上部の遠くに望まれるのは熊本城と思われる。右側の絵馬は薩摩軍の本陣の様子で、西郷隆盛らの薩摩軍首脳が軍議中である。


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三国志』より

関羽張飛を連れて、孔明に会いに来た玄徳。孔明のいる柴門を入り内門のところで孔明に会いたい旨、手伝いの堂子に伝える玄徳。孔明は今お昼寝中であることを童子から聞くと、関羽張飛を柴門の方に引き下がらせ、玄徳は内門のそばで、孔明の目覚めを待った。


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神功皇后 海戦』1843年(天保14年)

神功皇后の絵馬が多いのは、近くに『宇美八幡』があり、そこが応神天皇 誕生の聖地として、また、安産の神様として知られていることから神功皇后、伝承を描いたものであろう。応神天皇の母は神功皇后とされる。この絵馬は、新羅との海戦の様子を表したもので、日本書紀に『船師満海』(軍船が海に満ちた)と記述されている場面を描いています。

 


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『通俗、三国志』1891年(明治24年9月)

三国志』の中から四つの場面を抜粋した絵馬です。市内に残る絵馬の中ではもっとも大きく、色彩も豊かです。以下それぞれ絵に書かれている文書と説明()内を書いています。

 

・右上ーー『通俗、三国志 季儒並びに帝王何太后に毒酒を進める図』(絵では左から、袁紹 薫卓 紹蝉? ■皇子とあります。後漢の逆臣 薫卓が皇帝と皇太后に背き、ついに毒酒を飲ませて暗殺してしまう場面。絵馬の中の曹卓とあるのは「薫卓」の誤りではないかと思われる)

 

・右下ーーー『玄徳天地を祭して桃園に義を結ぶ図』(劉備 張飛 関羽の三人が『桃園の義盟』で義兄弟の誓いを立てている場面。向かって左から劉備 翼徳(張飛段珪関羽)と思われる)

 

・左下ーー『玄徳 曹操に■泰 韓逞?の首を見せている図』

(絵では左から曹操 薫卓袁紹 玄徳(劉備)下は張譲と首は陳横 張英の名が見える)

 

・左上ーー『趙雲 孫夫人を嶋に流す図』絵では左から何太后雲長皇子下には段園?張譲の名がある)※絵馬の中の人名は判然としないものがあります、誤りのある場合はお許しください


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屋島、扇の的』 1843年(天保14年)

 寿永3年2月(1184年)摂津一の谷の戦いに敗れた平氏は、安徳天皇を奉じて讃岐(四国、香川県)へ敗走した。しかし、平氏は、屋島高松市沖)を拠点とし、優れた水軍の兵力をもって瀬戸内海の制海権を握り、その勢力はまだ衰えていなかった。そこでこの戦局を一気に逆転せんとして、源義経率いる源軍は元暦2年(1185年)摂津(今の大阪府)から四国に渡り、同年の2月に、平宗盛率いる平氏の軍と屋島で激突した。

これが『屋島の戦い』である。さて、合戦の最中、平氏方の軍船上に扇が掲げられ、一人の女官が源軍を差し招いた。これを見た源軍の武将那須与一は海中の馬上より見事にこれを、射落とし敵味方の区別なく喝采を浴びた。これは屋島の戦いになかでも最も名高い場面であり、絵馬には矢を放って扇の要を射抜いた瞬間の、那須与一の姿が描かれている。