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歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【福岡県中間市】月瀬八幡宮

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福岡県中間市の月瀬八幡宮
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猫城は、室町時代に麻生氏の端城として築かれたといわれ、その城跡には、現在、月瀬八幡宮の社殿があります、

 城跡の丘陵は、高さ約20メートルの円錐状で、すそ野には水濠の名残りがみられます。

 山鹿城の麻生元重と宗像大宮司氏貞は、数度の合戦に及ぶも決着がつかず、天正6年(1578)、遠賀川の東は麻生領、西は宗像領となります。氏貞は、家臣吉田倫行に雑兵150余人をつけ、猫城に配属します。

 天正8年5月、豊後の大友氏(立花道雪の説もあり)の指令を受けて、鷹取城主毛利鎮実が攻め込みますが、宗像勢は激戦の末、これを打ち破っています。頂上からは、遥かに宗像、鞍手、遠賀が一望され、要塞の地であったことが想像されます。

「猫城」の名の由来は、定かではありませんが、「猫が背を丸めた姿に見える」とか、「敵が攻めて来れば高くなり、城より攻め下るときは低くなり、まるで猫のようだ」との言い伝えがありますf:id:rekiken9:20190513150543j:image

猫城跡の碑
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拝殿
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本殿

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神社名 月瀬八幡宮
住所 福岡県中間市上底井野1696−1
TEL 093-244-1824
御祭神  
創建年      
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印

【福岡県福津市】東郷神社

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福岡県福津市鎮座の東郷神社f:id:rekiken9:20190511202932j:image

当神社は、昭和十年五月に東郷平八郎元帥を祭神に創建されました。祭神は、明治三十八年五月二十七日の日露戦争日本海海戦で我が国の連合艦隊司令長官として艦隊を指揮、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を海戦史上例のない戦法で完勝し、我が国を守りました。そして、昭和九年五月三十日東郷元帥薨去と共に全国民の間から元帥を神として祀る気運が高まり、戦場を一望する元帥ゆかりのこの地に神社が創建されました。また、春の例祭では海戦で戦没した日本とロシアの英霊を合わせてお祀りしています。

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皇国興廃此一戦三笠檣頭Z旗翻名将東郷胆■■神謀鬼■■■先■亦全軍必勝気巨砲爆雷威力鮮■寇■■悉殲滅日本海上波拍天f:id:rekiken9:20190511203000j:image

拝殿

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本殿

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神社名 東郷神社
住所 福岡県福津市渡1815−1
TEL 0940-52-0027
御祭神 東郷平八郎元帥
創建年 1935年
社格  
建築様式 社殿:神明造り 拝殿:はにわ型
駐車場
御朱印

【糟屋三十三箇所霊場】第三十番札所

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福岡市東区名島に糟屋三十三箇所霊場の第三十番札所がありました

 

他にどこにあるのか調査します!

 

寺名 法長寺
住所 福岡県福岡市東区東区名島3丁目14
TEL  
本尊 十一面観音菩薩
創建年  
駐車場
備考 第30番札所

【福岡市東区名島】岩見重太郎誕生の地

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福岡市東区名島の岩見重太郎誕生の地

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剣豪「岩見重太郎」について

 岩見重太郎は、小早川隆景天正・文禄年間にかけて名島城主であったとき、剣術指南役岩見重左衛門の二男として、当地筑前国名島に誕生していますが、父が指南役を争った広瀬軍蔵の鉄砲による闇討にあい非業の死を遂げます。
 兄の重蔵と妹のお辻は、主君に願い出て仇討ちにでかけて、首尾よく仇に巡りあうが返り討ちにあいます。
 弟の重太郎は、幼い頃から英彦山で兵法を教わった七十人力の剣豪であり、諸国修業に回るうち妹と巡りあい、事の次第を聞き、仇討教免状を譲り受け、京都の天橋立濃松で仇敵広瀬軍蔵と出会い見事本懐を遂げたと伝えられています。
 天橋立には「岩見重太郎仇討の場」の碑が建っています。
 若杉山の大蛇退治や河内国葛城山の山賊退治、信州松本の佛佛退治、丹後大島の海賊退治など、全国には数多くの岩見重太郎の武勇伝が伝えられています。


名島地区財産管理会

 

 

遺跡名 岩見重太郎誕生の地
住所 福岡県福岡市東区名島3丁目14−21
TEL  
年代  
指定区分  
駐車場

 

【福岡市東区名島】海蔵院神宮寺跡

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福岡市東区名島で海蔵院神宮寺(廃寺)の痕跡を発見

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天正一五年小早川隆景公、城ヲ筑前国名島ニ築テ、居ルコト七年、封ヲ金吾中納言秀秋ニ譲リ、超ヘテ慶長五年徳川氏天下ヲ治ムルヤ、秀秋封ヲ備前国に移サル、当時名島城ノ内濠ニ巨刹ヲ存ス、小早川氏移封ノ后、此ノ寺モ又荒廃ニ属ス、同年黒田長政公、代ツテ筑前国ヲ領シ、名島城ニ居ル、同八年福岡城ヲ築キテ之ニ移ル、爾来神宮寺大ニ衰頽に帰セリ、此時ニ当リ硯得ノ僧権大僧都快乗、同快憲、屡長政公ニ謁シ、再建ヲ嘆願ス、元和三年遂ニ寺院並ニ護摩堂ヲ新築、寄進セラル、同七年畑十石ヲ寺領ニ賜ハル、茲ニ於テ快憲多年ノ努力空シカラス、宿志始メテ酬ユルヲ得タリ、其ノ功績ニ由リ神宮寺中興ノ祖トナス、正保三年黒田忠之公再建セラル、同時ニ畑十石ヲ賜フ、寛文十年光之公改築ト共ニ田地四反七畝二十歩ト山林八千三百三十坪ヲ賜フ、第四世法音坊運賀ハ綱政公ノ信任最モ厚ク、同僧ノ懇願ニ依リ、弁財天ヲ氏神社ノ位置ニ移シ、堂宇ヲ新築シテ浜鳥居モ寄進セラル、此ノ由緒深キ神宮寺中興ノ祖以下、第十九世ニ至ル高僧ヲ葬ムル墳墓ハ即チ此地ナリ、明治維新ノ宏業創立シ、王政復古トナリ、神仏合祀ヲ禁ス、弁財天モ氏神ト分離セラルゝヤ、神宮寺ハ自然衰頽ノ極、遂ニ廃寺トナル、大正七年東邦電力株式会社発電所ヲ此地に設クルヤ、現有土地ノ一部ヲ却ス、其資ヲ以テ殆ト煙滅ニ属セル甕塔並ニ墳墓ヲ改修シ、続ラスニ煉瓦壁ヲ以テス、剰余一千円アリ、維持費トシテ永久ニ保存ス、以上、述フルカ如キ名刹旧跡ニシテ、後年桑海ノ変ニ遭遇シ、荒廃ニ属センコトヲ憂ヒ、区民相謀リ、碑ヲ建テ沿革ヲ記シ、之ヲ後昆ニ伝フチ云爾」

昭和四年九月念日

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かつて、この地にあった神宮寺の繁栄と荒廃についての歴史、名島神社、名島弁財天の事などを記しています

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歴代僧侶の墓群

 

遺跡名 海蔵院神宮寺跡
住所 福岡県福岡市東区名島3丁目14
TEL  
年代 江戸初期(碑建立は昭和初期)
指定区分  
駐車場

【福岡県香春町】鶴岡八幡神社

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福岡県香春町鎮座の鶴岡八幡神社

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事蹟 応永五年正月十七日、大内盛見、田川郡鶴岡八幡宮有社参事神宮寺ノ別当行璃被■縁起(応永戦記より)

 

 人王七十六代近衛院の御宇、仁平三年春、鎮西八郎この地を領するに及んで、相模国鎌倉の鶴岡八幡宮に勧請して、鶴岡と号す。続いて五寺一院の大伽藍四十八ヶの堂舎を建てる、久寿元年宸筆(当社の縁起より)

 

由来

 仁平二年十月鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から匂金庄南大原、(現田川農林高等学校地域)の館に移りて、源氏の氏神である鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め、阿蘇判官忠国に命じ先ず京都に上し近衛天皇の御許を受けて、鎌倉由井の郷に下り鶴ケ岡宮に参詣し幣帛、神楽を献じ神法に従い御神霊を請けて、時の本宮の宮司の二男津守源盛義、御神霊を棒持し同年十二月二十五日瀬戸の尾山(現上高野岩丸健次氏屋敷内と言い伝う)に安着す、

この時新造の御社殿完成せずやむなく尾山に留まりて翌年正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣功せしにより同月十六日新宮に奉斎す。

 この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、其他は廻廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。総ての修法が終わって神霊を鎮め神楽を奉し舞楽の青海波と太平楽修理大夫に奉納せしむ(此の時修理大夫が用いし翁面、鈴、為朝公の烏帽子、鏃と共に当社の宝物として現存す)一同拝賀を行い、馬場にて流鏑馬、競馬を奉仕す又社僧群座して終日大盤若経を勤行する。

 鎌倉本宮の神法に則り毎年十月新嘗の大祭、即ちホウハン祭を執行せしむ

(ホウハン祭は現在全く滅びています)

久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御宸筆の(鎮西鶴岡若八幡宮)勅額を持参して下伺される。為朝公これを拝受し掲げしむ、勅使神前に拝賀して太刀三振を奉納して同四月二日京都に帰られる。

 為朝公は当社を九州の源氏の氏神として甚だ篤く崇敬したが其後保元の乱起こりて東国に去る。後嫡子鶴王丸に阿蘇忠国を後見として附随せしめて当社を宇護せしも平治の頃天下乱れて当社も殆ど傾廃す。

 文治二年春源義経公が平家追討の時梶原源太景季を代参させ社殿を再建す。後源頼朝公は九州守護職に命じて社殿を修理せしむ

 建武二年足利尊氏公文中三年秋代弊使細川武蔵守等は社殿に修造を加え神宝金銀を奉納す。永禄四年六月大友義統が香春岳城攻略の時、兵火にて社殿焼失、これを毛利元就公が直ちに復興す。

天正十五年夏、豊臣秀吉の九州討伐の時再び炎上、慶長十年九月、藩主細川中務大輔藤高公これを再興、其後貞享二年八月藩主小笠原遠江守忠雄公社殿を造営して深く崇拝する。

昭和四十一年小笠原公造営の社殿が不審火にて社殿焼失する。四十四年氏子の赤誠により復興造営がなされる。

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拝殿

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本殿

 

 

神社名 鶴岡八幡神社
住所 福岡県田川郡香春町中津原421
TEL 0947-32-4435
御祭神 応神天皇神功皇后玉依姫命
創建年 1153年
社格 郷社
建築様式  
駐車場
御朱印  

【福岡県直方市】須賀神社

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福岡県直方市鎮座の須賀神社

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当社は、今からおよそ1350年前の舒明天皇の御代(7世紀前半)岩熊麻呂が神憑を蒙り、この地に素戔嗚尊をお祀りし、武徳神社と号したのあ、その始まりであります。

 その後、貞観十五年(873年)には社号を祇園神社と改めましたが、境郷の総鎮守として人々の尊敬最も篤く、神仏習合の社として近郷の人々の信仰の中心として永く尊崇を集めてきました。

 その間、貞観三年(861年)には、当神域に隕石の落下を見たり、建武三年(1336年)には建武の板碑の建立があるなど数々の歴史を閲してきたのであります。

 明治以降は、社名も須賀神社と改まり神苑も拡張され、桜の名所としても賑わいを見せてきました。

 御神徳は、国家安泰、家門繁栄、無病息災、開運厄除、五穀豊穣、商売繫盛、学業成就等広きにわたり、人々の生活と安全を守護し給うているのであります。

 

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楼門

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拝殿

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本殿

 

神社名 須賀神社
住所 福岡県直方市下境1244
TEL 0949-22-1463
御祭神 素戔嗚尊保食神吾勝尊
創建年 7世紀前半
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印