【広島県福山市】福山八幡宮
楼門
聰敏神社
勝成公は、徳川家康の従兄弟で、大阪夏の陣に初戦を飾り、その功により三河国刈谷より大和郡山を経て、西国鎮衛として元和六年この福山十万石の領主として赴任した。城下町造成のため困難を克服して、南に東に干拓造成し、芦田川の水を城下町に飲料水として導入した。又領国経済の流通拠点とすべく、商人群を城の大手前に移転せしめ、特産物の蘭草、畳表の商いを奨励する等、数多くの善政を引く。慶安四年死去、霊社は城内に祀られていたが、享保五年この地に移される。勝成公は聡明、俊敏と称えられ、当社が聰敏神社と呼ばれる所以である。
聰敏神社
拝殿
本殿
神社名 | 福山八幡宮 |
住所 | 広島県福山市北吉津町1丁目2−16 |
TEL | 084-924-0206 |
御祭神 | |
創建年 | |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【広島県福山市】艮神社
楼門
沿革
当神社は平安時代、福山が藤原家の荘園として栄えていた当時(天栄年間 西暦1100年頃)須佐之男命を祀る「牛頭天王社」として今の木之庄に建立されており、(牛頭とは須佐之男命の呼称)建武元年(西暦1334年)今の地に伊邪那岐命を併祀の上、遷座し当時の集落の中心地吉津、木之庄、本庄、奈良津、千田各郷一帯の産土神「秋津州神社」と改称された旧福山最古の神社であります。降って、水野勝成公福山築城(元和五年西暦1619年)に際しては城郭の鬼門・艮の方位(東と北の間)を鎮める守護神「秋津艮大明神」と称えられ天和三年(西暦1683年)水野勝種公の諸社殿の寄進を始め、度々造営修復がなされ、御社頭益々賑盛を極め、明治以後は現在の御社名「艮神社」となり、北吉津町を始め三十八カ町約5000戸の氏神、又広く福山地方一円の鬼門守護神、厄除神として崇敬されております。
拝殿
本殿
神社名 | 艮神社 |
住所 | 広島県福山市北吉津町1丁目5−24 |
TEL | 084-922-3149 |
御祭神 | 須佐之男命、伊邪那岐命 |
創建年 | 1100年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【広島県福山市】福山城
福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和六年(1620)より三ヶ年の歳月を費やし、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。
総面積約八万坪(26・5ha)内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。
その後、水野五代、松平一代、阿部十代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。
幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。
なお、現在の天守閣等は、昭和四十一年市制五十周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城郭は国の史跡となっている。
城名 鉄覆山朱雀院久松城
別名 葦陽城
ふくやま文化ゾーンマップ
史跡 福山城跡
この城は、元和五年(1619)福島正則の改易により備後十万石の領主として入封した水野勝成か、三年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。
低い丘陵を利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。
現在内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街化しているが、二之丸・本丸は築城当時の姿をよく伝えている。
城地には、そそりたつ石燈をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。
なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和四十一年(1966)に、鏡櫓は昭和四十九年(1974)に、それぞれ外観復元したものである。
城号 敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城(葦陽城)
城主 水野氏五代・松平一代・阿部氏十代
伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床坂敷き、小屋染天井としている。城郭建築史上初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。
筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付櫓門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。
伏見櫓
筋鉄御門
築城当時より城下や近隣諸村に「時の鐘」をつげた遺構で江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。
当初は杮ぶきか桧皮ぶきであったが、明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原型をとどめない状況であった。昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。
城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく貴重な文化財である。
福山城鐘櫓
湯殿
京都、伏見城内にあった御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されていたが、昭和二十年(1945)の戦災により焼失した。
昭和四十一年(1966)に内外ともに復原したものである。
湯殿
月見櫓
月見櫓はもと京都・伏見城内にあったものを移築したものといわれ、本丸の東南隅に位置し、望楼の役割を成していた。
明治の初め頃とりこわされたが、昭和四十一年(1966)に天守閣とともに外観復原した。
月見櫓
この長屋門は福山城の外濠に面した位置にあった武家屋敷内藤家の長屋門である。
昭和二十年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物である。内藤家の初代延常は武蔵国(埼玉県)岩槻城主阿部正次の家臣となり阿部家が宝永七年(1710)福山藩主に封じられたとき内藤家三代延貞が随従し以後明治四年(1871)の廃藩まで阿部家家臣として仕えた。
本建造物は、昭和五十一年三月所有者である福山市西町中井良介氏より福山市が寄贈をうけ現位置に解体修理移築をしたものである。
構造形式等
桁行 17・73m
梁間 2・955m
平面積 52・39平方m
屋根 入母屋造■瓦葺
建築年代 弘化三年(1846)
旧内藤家長屋門
遺跡名 | 福山城跡 |
住所 | 広島県福山市丸之内1丁目8 福山城 |
TEL | |
年代 | 1619年 |
指定区分 | |
駐車場 | 有 |
【広島県福山市】天別豊姫神社
由来
当神社はこの地方が穴の海と呼ばれていた頃、黄葉山東麓の荒磯岩上に祀られ「磯神社」と称されていた。
元慶二年(878年)には神階従五位上に叙せられ、延長五年(927年)には延喜式神名帳に安那郡天別豊玉姫神社と所載され中央にその資格を認められた。(式内社)
その後、建武二年(1335年)浅山氏が備後国守護職となり城を黄葉山に築くに当たり、本社をその中腹に移し祀り、城鎮護の神となし、現在に至っている。(旧社格:県社)
神門
絵馬
拝殿
本殿
神社名 | 天別豊玉姫神社 |
住所 | 広島県福山市神辺町142−2 |
TEL | 084-962-2027 |
御祭神 | 豊玉姫命、速進雄命、事代主命、吉備津彦命、火及加具土命 |
創建年 | |
社格 | 式内社、県社 |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【岡山県岡山市北区】吉備津彦神社
古代御社図
由緒
古代より当社背後の吉備の中山には巨大な磐座(神が鎮座する岩)・磐境(神域を示す巨石群)が有り、山全体が神の山として崇敬されてきた。
主祭神は大吉備津彦命。命は四道将軍の一人(西道将軍)として山陽道に遣わされた、「温羅」という鬼神を退治し、吉備国を平定・統治し、現人神として崇められた。御年二百蜂十一歳で薨去され吉備の中山の南嶺に御陵(茶臼山古墳)を定め葬り奉っている。
仁明天皇承和十年(843)十月二十四日一品爵位を贈送され、一品宮とも一品吉備津彦大明神とも呼ばれ、吉備国が備前・備中・備後・美作に別れると備前国一宮として崇敬された。
中世には武家や庶民の信仰が厚かったが、日蓮宗への改宗を迫る金川城主の松田左近将監によって社殿がことごとく焼かれた。江戸時代に入ると岡山藩主池田氏は崇敬厚く、延宝五年(1677)に三百石の社領を寄進、元禄十年(1697)には綱政公によって社殿が再建された。昭和三年(1928)十一月十日国弊小社に列せられた。昭和五年(1930)、不慮の火災で御本殿、随神門を除いて焼失。現在の社殿は昭和十一年(1936)の再建である。
神宝類は多く、池田綱政奉納の井上眞改作の太刀一振りは「国指定重要文化財」である。「岡山県指定重要文化財」は御本殿・紙本淡彩神事絵巻(室町時代)など。「岡山市指定重要文化財」は随紙門・中門・子安神社御本殿拝殿・安政の大石灯篭がある。
古より祀られる子安神社を慶長十四年(1609)池田照直が光政誕生を祝って新築し、寛文十二年(1672)健康が優れなかった藩主池田光政の平穏祈願のため、生母の福生院が祈願したところ光政の病気が全快した。健康祈願、家内安全、子授成就、安産祈願で有名である。
高さ十一メートル、六段づくり、笠石の大きさは八畳敷。文政十三年から安政四年(1830~1857)にかけて地元有志が発起人となり、天下泰平・国家安全・万民豊楽・五穀豊穣などを念願し、備前一円と浅口郡の合計1670余人から五六七六両の寄付が寄せられ、安政六年(1859)に完成した。各段には寄進者の名前が刻まれている。幅広い信仰の証である。
安政の大石灯籠
この大灯籠は、六段造り、高さは十一米、笠石は八畳敷の広さがあり、まさに日本一といわれている。
文政十三年と安政四年の二度にわたり、地元有志が発起し、天下泰平、国家安全、万民豊楽、五穀成就などを念願して、備前一円、浅口郡を中心に広い地域で寄進を募り、奉納されたものである。
石に彫られた寄付者名は、実に千六百七十余名で、五千六百七十六両(約一億三千余万円相当)の浄財が寄せられている。
ちなみに、完成した年は江戸幕府がアメリカのハリスと日米修好通商条約を結んだ年にあたっている。
安政の大石灯籠
さざれ石と国家「君が代」の歴史
国家「君が代は」の作詞は古今和歌集巻七、賀の部詠み人知れずの「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」この原歌を「君が代は」と修正して明治十三年宮内省の音楽師、林広守氏が作曲し、これを天長節に演奏したのが始めであった。
改めて明治二十六年文部省告示によって学校の儀式に斉唱する様に制定されたのである。それ以来この歌を国家として国際的にも使われて今日に及んでいる
「わが君は」を「君が代は」と改変した事によって天皇御一人のことではなく、天皇のしろしめす御代、この日本の国全体と解される様になった。
さざれ石とは細かい石の事である
それが年を経て、やがて巌ともなる様に国が栄えてゆくようにと念じて其の気持ちを歌ったものである。個々の細かい石が集結して一致団結して次第に大きくなる。
即ち一家、一町村、県市やがて国と、集結して栄えて幾千代までもと云うめでたい意義・内容を持つ石である。
さざれ石
御神池
随神門
吉備津彦神社本殿
この神社は、社名のとおり吉備津彦命を祭神とし、古くから備前国の一宮として崇敬を集めてきました。十六世紀後半に、金川城主松田氏に迫害され、社伝は焼き払われましたが、元禄十年(1697)に再建されました。しかし、昭和五年、本殿、随神門、宝物殿を残して焼失し、現在の拝殿等は、昭和十一年に建てられたものです。
「本殿」は、桁行三間・梁間二間、屋根は、流造り・檜皮葺の流麗な建築です。元禄時代の建立で、県指定重要文化財となています。
このほか、「子安神社社殿」(市指定重要文化財)、「神事絵巻」(県指定重要文化財)や、毎年八月におこなわれる「御田植祭」(県指定重要無形民俗文化財)、十月の「流鏑馬神事」(市指定重要無形民俗文化財)等が貴重な文化財として広く知られています。
拝殿
本殿
神社名 | 吉備津彦神社 |
住所 | 岡山県岡山市北区一宮1043 |
TEL | 086-284-0031 |
御祭神 | 大吉備津彦命、吉備津彦命、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、彦刺肩別命、天足彦國押人命、大倭■■日百襲比売命、大倭■■日稚屋比売命、金山彦大神、大山咋大神 |
創建年 | |
社格 | 国弊小社、備前国一宮 |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |