【福岡県久留米市】諏訪神社
年代は不詳だが奈良朝末から平安初期頃(一千二三百年から一千四五十年前)には既に宮立があったでしょう。天慶年間一千三十年前の筑後の国神名帖には(国内神社の戸籍簿にも当る祭神大己貴命建御名方命とあり大神社としてます。御社号を諏訪神社と申すに至った神名帖記載の御祭神に建御名方命があり、此の神が諏訪大明神として広き天下に奉斎されることになったから、大神社を諏訪神社と御社号も変わったのでしょう。
戦国の代、大友・龍造寺両氏交戦の砌、御社殿は兵火に罹り社殿の復興は出来なかったが、祭祀は続けられ、降って徳川の初期、西野中村の住民挙って御由緒尊いお宮の荒廃をかなしみ社殿を西面にして現在位置に遷したのです。天保五年神殿拝殿が改築されたのが現在の社殿であります。
神域の南方数十年間の正面約六町歩の地域を「諏訪の前」と字名を云うのは諏訪神社御前の地域と云う処に起因することは、明白であります。御境内に老杉が在ったが世人は「諏訪の一本杉」と云い国府(国分)又お諏訪様所在の目印となったと伝えています。
お諏訪様の境内には、各種の常緑落葉の巨木が多くいかにも大きな森であったので、高麗鳥の巣造りが明治の終わり頃まで有ったと伝えています。
御社号町名字名或は、目標となるような巨木の森が有った事等を考え合わせますと自ら諏訪神社は住古から極めて尊い御由緒のあるお宮とあり且、それだけ広く普く崇敬を集めてお宮様でてるこしが御理解願へると思います。
拝殿
本殿
神社名 | 諏訪神社 |
住所 | 福岡県久留米市 |
TEL | |
御祭神 | 大己貴命、建御名方命 |
創建年 | 奈良時代末~平安時代 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |
【福岡県久留米市】五郎丸神社
福岡県久留米市鎮座の五郎丸神社
創建の年代、由来は不詳であるが、八幡大菩薩(八幡神社)、天神(天満神社)は江戸時代前期にはすでに五郎丸村の氏神とされている。
明治6年3月14日に八幡神社は村社に昇格する。明治42年5月に旧社殿を建立し、明治43年5月24日に天満神社、是善神社を合祀する。
八幡神社の総本宮は宇佐神宮(宇佐八幡神社)。天満宮(天満神社)の総本宮は二社あり、一社は菅原道真の霊を祀る京都の北野天満宮、一社は魂を祀る太宰府天満宮。
当神社は、応神天皇を「武」の神・八幡大菩薩、菅原道真を「学問」の神・天神さま、菅原是善を「相撲」の神・是善野(ぜぜの)さんとして、文武両道の神様を祀っている。
拝殿
本殿
神社名 | 五郎丸神社 |
住所 | 福岡県久留米市13 |
TEL | |
御祭神 | 応神天皇、菅原道真、菅原是善 |
創建年 | |
社格 | 村社 |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |
【福岡県大牟田市】三笠神社
由緒
髙橋紹運公は戦国武将にて、大友氏の一族吉弘氏より出で、高橋の名跡を継がれ筑前岩屋城・宝満城主として主家大友宗麟に忠節を誓い筑前立花城主、戸次道雪と共に大友家を支え守り抜きました。
天正十四年夏、九州制圧をかけ北上する島津軍五万の大軍を迎え討った高橋紹運公の手勢は七六三名。「一日で攻め落とす」と豪語する島津軍と十四日間にわたる戦国史上稀に見る激戦となりました。(岩屋城の戦い)。紹運公の人柄は『高橋記』に「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将」と記され、洵に武士の亀鑑たる御方でございました。
豊臣秀吉は「乱世に咲く華」と紹運公を称え長男立花宗茂に柳川藩を、次男立花直次に三池藩一万八千石を与えました。立花直次は武勇に優れ、文禄・慶長の役において兄を救出し、剣術に優れ、柳生宗矩の門弟となり「新陰治源流」を開祖。紹運の妻は二男四女を産み温和な優しい人柄と家中より慕われました。
七代藩主立花種周は、若年寄となり幕政に参与しましたが、文化二年(1805年)奥州伊達郡下手渡村(福島県伊達市)移封となり天保六年(1835年)祖先の義烈を顕彰すべく神祇伯に請いて三笠神社が創建されました。
明治維新により念願の三池復封となり明治三年東山(大牟田市今山)にご遷座、明治四年県社に列せられ、明治十六年例祭煙花による火事により、明治二十九年八月現在地にご遷座
我が国の近代化産業は、ここ石炭発祥の三池稲荷村から始まることから三笠神社は郷土の発展とともに武勇の神をまつる神社として広く尊崇されています。
拝殿
本殿
神社名 | 三笠神社 |
住所 | 福岡県大牟田市鳥塚町88 |
TEL | 0944-53-0606 |
御祭神 | 高橋紹運、斎藤兵部太夫■実の妹、立花直次 |
創建年 | 1835年 |
社格 | 県社 |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |
【福岡県新宮町】磯崎神社
福岡県粕屋郡新宮町の磯崎神社
磯崎神社は始め現在地より西方にあった磯崎の岬(新宮波止場付近)に鎮座されていましたが、暴風や怒涛のため社殿の破損が心配されるため、村民がこの地に移さんと筑前藩主へ願い出ました。貞享二年(1685年)筑前国主松平右衛門佐光之(黒田光之)がこれを許して、移転しました。
波際に高さ1丈(約3m)、長さ二百七十間(約500m)の石垣を築き、松を植え、その辰巳(東南)にあたる白砂青松の間(現在地)に本社を移し祀りました。この時、石垣の内に漁家を現在の湊字古屋敷より移し、神宮浦を新宮浦と称するようになりました。
また、境内に「陰」「陽」の二個の石(子持ち石)があり、子どもの無い婦人が北にある陰石に■けて祈願すれば、子宝に恵まれると伝えられています。
尚、境内の絵馬堂には、古き時代の絵馬と、寛延三年六月(1750年)黒田藩から寄進された狩野昌運の筆になる「三十六歌仙」に公家衆が書いた寄合書の和歌が展示されています。
※黒田藩主筑前守継高より奉詠された和歌
「磯崎の宮居も清き新宮の なお行末を守れ神垣」
拝殿
本殿
神社名 | 磯崎神社 |
住所 | 福岡県糟屋郡新宮町 |
TEL | |
御祭神 | 大己貴命、少彦名命、素戔嗚尊 |
創建年 | 1685年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |