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【広島県福山市】備後護国神社(阿部神社)

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広島県福山市鎮座の備後護国神社(阿部神社)

 

備後護国神社 御由緒 御神徳

 当神社は、昭和三十二年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。

 阿部神社の建立は、文化十年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。

 御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。

 御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。

 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永六年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。


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宮本武蔵腰掛石の由来

 元和元年(1615)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(1624~1629)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗応。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた、

 水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治四年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引払うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。


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宮本武蔵腰掛石
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阿部正弘公石造潜り

 正弘公は天保十四年(1843年)二十五歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ、嘉永五年(1852年)老中筆頭、今の総理大臣に就き、江戸と福山に誠之館を建てる。安政元年(1854年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を昂揚し、日の丸を日本の国旗を制定した人でもあります。阿部家十一代、福山藩主七代目の正弘公は、当神社の御祭神であり希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石造を潜り希望をかなえて下さい。


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阿部正弘公像
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拝殿
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本殿
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神社名 備後護国神社(阿部神社)
住所 広島県福山市丸之内1丁目9−2
TEL 084-922-1180
御祭神 大彦命、武沼河別命、福山藩歴代藩主
創建年 1813年
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印