【山口県下関市】嚴島神社
厳島神社の三柱の御祭神は畏くも皇祖天照大神の御子神であらせられ(厳島神社記録帳)によると安芸国厳島神社の御分霊を平家の守護神として安徳天皇の御座船におまつりされていたが、壇ノ浦の合戦後、この近くの磯辺に放棄されていたのを里人に神託があった。「吾は厳島姫の神也、早く祭るべしかしこの磐之上にあり」と不思議に思いながらそこに行って見ると磯辺に御鏡太刀様の物を見つけ、文治元年(1185年)里人たちが現在地に社殿を建立し更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し今日に至っております。
本社は京都市左京区貴船に鎮座する貴船神社で御祭神は高於加美神と言います。水神様として親しまれ商売繫盛・開運の神として人々に崇敬されています。
高杉晋作の大太鼓
この地は、幕末明治維新の大きな原動力となった高杉晋作を始め奇兵隊諸士が活躍した明治維新発祥の地であります。高杉晋作は維新成就を祈願した当神社に大太鼓を奉納しました。この大太鼓はケヤキ材のくり貫きで直径110㎝・重量390㎏あり、明治維新の象徴であります。この大太鼓を通して先人を顕彰し、その歴史に学ぶことを目的に毎年9月第一土曜日太鼓祭を執り行っています。
萩藩新地御用所跡
此の地は平安時代は長崎村と云う名称で入海であったが萩領となった後、享保十五年土手町を開作し、更に宝暦十二年より明和五年迄の六年間を費やして今の如く埋立てたのである。新地と云う名称は之に基づく、大内時代に支那貿易の鍵を握って居た時代、貴重な地区で宝暦七年の調べによれば、在■打方物頭、坂買改方、大筒役、足軽等、その数百余人、御用所は単に新地及び伊崎の一部だけでなく、引島彦島竹の子島六連島に遠見番所を設け非常時代に供えていたのである。
御用所の建物は次の通りである
- 御用所一軒五十八坪七合五寸平屋造り総瓦葺
- 南側大手門より長屋一軒四十三坪七合五寸総瓦葺
- 西長屋一軒五十六坪二合五寸内中程七坪二階付総瓦葺
- 西側大手長屋一軒四十二坪総二階造り瓦葺
- 内長屋一軒四十二坪総瓦葺
- 御米銀蔵一軒十八坪内六坪二階瓦葺
- 御武具蔵一軒十二坪総二階造瓦葺
- 作事固屋木島場共一か所八坪
- 総頭厩一軒四坪
- 御本門一ヶ所三間半開戸二枚小門開戸一枚瓦葺
- 水揚門一ヶ所一間半引戸一枚
- 用心門一ヶ所一間引戸
- 陣堀長さ八十三間
- 渡り堀三間
- 後田手総竹垣
直径110㎝、重量390㎏のこの大太鼓は、かつて小倉城内(現北九州市)北側の櫓にあって城下に時を告げていたものである。
慶應元年(1865)四月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌二年(1866)六月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島県)・石州口(島根県)・小倉口(福岡県)の四境で戦いの火ぶたが切られた。この四境戦争での長州軍の勝利は討幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊の二隊を先鋒として戦い、遂に慶應二年八月一日、幕軍総師小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。攻め入った長州軍は余■の中からこの太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った厳島神社に奉納したのである。
現在、維新顕彰並びに小倉戦争の記念行事として、ここ厳島神社では毎年九月の第一土曜日に「太鼓祭」を催している。
大太鼓
拝殿
本殿
神社名 | 嚴島神社 |
住所 | 山口県下関市上新地町1丁目1−11 |
TEL | 083-232-1138 |
御祭神 | 市杵島姫神、田心姫神、■津姫神 |
創建年 | 1185年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |