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【山口県下関市】櫻山神社

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山口県下関市鎮座の櫻山神社
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七卿史跡

維新回天発祥地

櫻山招魂場を視察

 文久三年(1863)八月十八日の政変により三条実美卿等七卿は京都妙法院をあとに西下長州に向かう

 翌元治元年三月二十六日、六卿は馬関砲台を巡視発程の途上錦小路は病を発し二十九日彦島巡視の予定を延べ、同日晴八ツ時五卿方招魂場ご覧あり帰路鋳造場へ立ち寄らる

 頼徳卿は馬関にて静養中遂に客舎にて逝く■惜何ぞ堪えんや
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七卿史跡
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お龍と桜山招魂社

 龍馬の死後、下関に滞在していたお龍は、一時期、桜山招魂社(招魂場)運営のために設けられた「あけぼの」という茶屋で、橙の実を短銃で撃ったり、一晩中飲み明かしたりして過ごしたといいます。この間、お龍は桜山招魂場に祀られた人々への想いを詠んでいます。

「武士の かばねはここに桜山 花は散れども 名こそ止むれ」
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猛烈奇兵何所志

要将一死報邦家

尤欣名遂攻成後

共作弔魂場上花

弔む羅和留人 尓入るべき身なり志尓

弔む羅宇人となるそは津か志

謹弔

霊魂

奇兵隊士東行狂生
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猛烈の奇兵何の所ぞ

一死を将って邦家に報いんと要す

尤も欣ぶ名を遂げ功成りて後

共に弔魂場上の花と作らんを

 

弔らわる人に入るべき身なりしに

弔う人となるぞはずかし


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櫻山招魂場

 櫻山招魂場は、奇兵隊の嘆願により、元治元年(1864)5月に尊皇攘夷に倒れた隊士らを身分の区別なく慰霊する施設として創設され、翌年の慶應元年8月に招魂祭が挙行された。のちに全国に設けられる招魂社の先駆けであり、幕末維新における奇兵隊、ひいては長州藩の思想理念を象徴する史跡である。

 現在の招魂場には、吉田松陰をはじめ391基の招魂碑が整然と立ち並ぶ。その初期の姿は、招魂碑が社殿をコの字状に囲む形態であったが、明治40年代前半には神社拝殿裏に整然と集約配置された。その後も数度の改変を経て今に至っており、現在の配置形態からは、史料や石碑の色合いにより一つ前の配置形態(昭和34年)を読み解くことができる。また、吉田松陰の碑は戦前のある時点で、他と区別すべく一段高く最前列中央に据えられ、その左右には松下村塾四天王と称される高杉晋作久坂玄瑞入江九一吉田稔麿が配され、吉田松陰に対する当時の時代背景が映し出される。

 櫻山招魂場は、幕末から近代にかけての戦死者の慰霊・追悼・顕彰のあり方などを明らかにするうえでも、大きな意味を持つ。

 

※招魂祭 尊皇のもとに戦死した者を慰霊し、変革感覚を誓う祭祀。その起源は、文久二年(1862)に京都霊山で在京各藩有志により行われたことに始まるとされる。
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招魂場石碑
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拝殿
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本殿

 

神社名 櫻山神社
住所 山口県下関市上新地町2丁目6−22
TEL 083-222-6735
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印