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【糟屋三十三箇所霊場】第三十番札所

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福岡市東区名島に糟屋三十三箇所霊場の第三十番札所がありました

 

他にどこにあるのか調査します!

 

寺名 法長寺
住所 福岡県福岡市東区東区名島3丁目14
TEL  
本尊 十一面観音菩薩
創建年  
駐車場
備考 第30番札所

【福岡市東区名島】岩見重太郎誕生の地

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福岡市東区名島の岩見重太郎誕生の地

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剣豪「岩見重太郎」について

 岩見重太郎は、小早川隆景天正・文禄年間にかけて名島城主であったとき、剣術指南役岩見重左衛門の二男として、当地筑前国名島に誕生していますが、父が指南役を争った広瀬軍蔵の鉄砲による闇討にあい非業の死を遂げます。
 兄の重蔵と妹のお辻は、主君に願い出て仇討ちにでかけて、首尾よく仇に巡りあうが返り討ちにあいます。
 弟の重太郎は、幼い頃から英彦山で兵法を教わった七十人力の剣豪であり、諸国修業に回るうち妹と巡りあい、事の次第を聞き、仇討教免状を譲り受け、京都の天橋立濃松で仇敵広瀬軍蔵と出会い見事本懐を遂げたと伝えられています。
 天橋立には「岩見重太郎仇討の場」の碑が建っています。
 若杉山の大蛇退治や河内国葛城山の山賊退治、信州松本の佛佛退治、丹後大島の海賊退治など、全国には数多くの岩見重太郎の武勇伝が伝えられています。


名島地区財産管理会

 

 

遺跡名 岩見重太郎誕生の地
住所 福岡県福岡市東区名島3丁目14−21
TEL  
年代  
指定区分  
駐車場

 

【福岡市東区名島】海蔵院神宮寺跡

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福岡市東区名島で海蔵院神宮寺(廃寺)の痕跡を発見

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天正一五年小早川隆景公、城ヲ筑前国名島ニ築テ、居ルコト七年、封ヲ金吾中納言秀秋ニ譲リ、超ヘテ慶長五年徳川氏天下ヲ治ムルヤ、秀秋封ヲ備前国に移サル、当時名島城ノ内濠ニ巨刹ヲ存ス、小早川氏移封ノ后、此ノ寺モ又荒廃ニ属ス、同年黒田長政公、代ツテ筑前国ヲ領シ、名島城ニ居ル、同八年福岡城ヲ築キテ之ニ移ル、爾来神宮寺大ニ衰頽に帰セリ、此時ニ当リ硯得ノ僧権大僧都快乗、同快憲、屡長政公ニ謁シ、再建ヲ嘆願ス、元和三年遂ニ寺院並ニ護摩堂ヲ新築、寄進セラル、同七年畑十石ヲ寺領ニ賜ハル、茲ニ於テ快憲多年ノ努力空シカラス、宿志始メテ酬ユルヲ得タリ、其ノ功績ニ由リ神宮寺中興ノ祖トナス、正保三年黒田忠之公再建セラル、同時ニ畑十石ヲ賜フ、寛文十年光之公改築ト共ニ田地四反七畝二十歩ト山林八千三百三十坪ヲ賜フ、第四世法音坊運賀ハ綱政公ノ信任最モ厚ク、同僧ノ懇願ニ依リ、弁財天ヲ氏神社ノ位置ニ移シ、堂宇ヲ新築シテ浜鳥居モ寄進セラル、此ノ由緒深キ神宮寺中興ノ祖以下、第十九世ニ至ル高僧ヲ葬ムル墳墓ハ即チ此地ナリ、明治維新ノ宏業創立シ、王政復古トナリ、神仏合祀ヲ禁ス、弁財天モ氏神ト分離セラルゝヤ、神宮寺ハ自然衰頽ノ極、遂ニ廃寺トナル、大正七年東邦電力株式会社発電所ヲ此地に設クルヤ、現有土地ノ一部ヲ却ス、其資ヲ以テ殆ト煙滅ニ属セル甕塔並ニ墳墓ヲ改修シ、続ラスニ煉瓦壁ヲ以テス、剰余一千円アリ、維持費トシテ永久ニ保存ス、以上、述フルカ如キ名刹旧跡ニシテ、後年桑海ノ変ニ遭遇シ、荒廃ニ属センコトヲ憂ヒ、区民相謀リ、碑ヲ建テ沿革ヲ記シ、之ヲ後昆ニ伝フチ云爾」

昭和四年九月念日

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かつて、この地にあった神宮寺の繁栄と荒廃についての歴史、名島神社、名島弁財天の事などを記しています

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歴代僧侶の墓群

 

遺跡名 海蔵院神宮寺跡
住所 福岡県福岡市東区名島3丁目14
TEL  
年代 江戸初期(碑建立は昭和初期)
指定区分  
駐車場

【福岡県香春町】鶴岡八幡神社

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福岡県香春町鎮座の鶴岡八幡神社

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事蹟 応永五年正月十七日、大内盛見、田川郡鶴岡八幡宮有社参事神宮寺ノ別当行璃被■縁起(応永戦記より)

 

 人王七十六代近衛院の御宇、仁平三年春、鎮西八郎この地を領するに及んで、相模国鎌倉の鶴岡八幡宮に勧請して、鶴岡と号す。続いて五寺一院の大伽藍四十八ヶの堂舎を建てる、久寿元年宸筆(当社の縁起より)

 

由来

 仁平二年十月鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から匂金庄南大原、(現田川農林高等学校地域)の館に移りて、源氏の氏神である鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め、阿蘇判官忠国に命じ先ず京都に上し近衛天皇の御許を受けて、鎌倉由井の郷に下り鶴ケ岡宮に参詣し幣帛、神楽を献じ神法に従い御神霊を請けて、時の本宮の宮司の二男津守源盛義、御神霊を棒持し同年十二月二十五日瀬戸の尾山(現上高野岩丸健次氏屋敷内と言い伝う)に安着す、

この時新造の御社殿完成せずやむなく尾山に留まりて翌年正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣功せしにより同月十六日新宮に奉斎す。

 この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、其他は廻廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。総ての修法が終わって神霊を鎮め神楽を奉し舞楽の青海波と太平楽修理大夫に奉納せしむ(此の時修理大夫が用いし翁面、鈴、為朝公の烏帽子、鏃と共に当社の宝物として現存す)一同拝賀を行い、馬場にて流鏑馬、競馬を奉仕す又社僧群座して終日大盤若経を勤行する。

 鎌倉本宮の神法に則り毎年十月新嘗の大祭、即ちホウハン祭を執行せしむ

(ホウハン祭は現在全く滅びています)

久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御宸筆の(鎮西鶴岡若八幡宮)勅額を持参して下伺される。為朝公これを拝受し掲げしむ、勅使神前に拝賀して太刀三振を奉納して同四月二日京都に帰られる。

 為朝公は当社を九州の源氏の氏神として甚だ篤く崇敬したが其後保元の乱起こりて東国に去る。後嫡子鶴王丸に阿蘇忠国を後見として附随せしめて当社を宇護せしも平治の頃天下乱れて当社も殆ど傾廃す。

 文治二年春源義経公が平家追討の時梶原源太景季を代参させ社殿を再建す。後源頼朝公は九州守護職に命じて社殿を修理せしむ

 建武二年足利尊氏公文中三年秋代弊使細川武蔵守等は社殿に修造を加え神宝金銀を奉納す。永禄四年六月大友義統が香春岳城攻略の時、兵火にて社殿焼失、これを毛利元就公が直ちに復興す。

天正十五年夏、豊臣秀吉の九州討伐の時再び炎上、慶長十年九月、藩主細川中務大輔藤高公これを再興、其後貞享二年八月藩主小笠原遠江守忠雄公社殿を造営して深く崇拝する。

昭和四十一年小笠原公造営の社殿が不審火にて社殿焼失する。四十四年氏子の赤誠により復興造営がなされる。

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拝殿

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本殿

 

 

神社名 鶴岡八幡神社
住所 福岡県田川郡香春町中津原421
TEL 0947-32-4435
御祭神 応神天皇神功皇后玉依姫命
創建年 1153年
社格 郷社
建築様式  
駐車場
御朱印  

【福岡県直方市】須賀神社

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福岡県直方市鎮座の須賀神社

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当社は、今からおよそ1350年前の舒明天皇の御代(7世紀前半)岩熊麻呂が神憑を蒙り、この地に素戔嗚尊をお祀りし、武徳神社と号したのあ、その始まりであります。

 その後、貞観十五年(873年)には社号を祇園神社と改めましたが、境郷の総鎮守として人々の尊敬最も篤く、神仏習合の社として近郷の人々の信仰の中心として永く尊崇を集めてきました。

 その間、貞観三年(861年)には、当神域に隕石の落下を見たり、建武三年(1336年)には建武の板碑の建立があるなど数々の歴史を閲してきたのであります。

 明治以降は、社名も須賀神社と改まり神苑も拡張され、桜の名所としても賑わいを見せてきました。

 御神徳は、国家安泰、家門繁栄、無病息災、開運厄除、五穀豊穣、商売繫盛、学業成就等広きにわたり、人々の生活と安全を守護し給うているのであります。

 

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楼門

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拝殿

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本殿

 

神社名 須賀神社
住所 福岡県直方市下境1244
TEL 0949-22-1463
御祭神 素戔嗚尊保食神吾勝尊
創建年 7世紀前半
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印  

【福岡県大野城市】善一田古墳群


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古墳時代後期~終末期(6・7世紀:今から1400年ほど前)の群集墳です。6世紀後半~7世紀後半までの約100年間に造られました。

 

この地で活躍した鉄器づくりの職人や、アジアとの交流で活躍した人々であることが明らかになっています。最も大きなものは丘の一番上にある古墳(18号墳)で、この地域一帯を治めたリーダーの古墳と考えられます。

 

古墳時代(3世紀中頃~7世紀)の大きなお墓のことを「古墳」と呼びます。善一田古墳群で古墳が造られはじめた6世紀の終わり頃は、蘇我氏聖徳太子が活躍した時代です。7世紀後半には、周辺で水城・大野城が築造され大宰府政庁が整備されるなど、古墳時代は終わりを迎えていきます。

 

 7世紀前後の民衆の姿を良好に伝える古墳群です。本物の遺跡を、確かな手応えで、見て、触れて、感じ、語ることができます。

 

大野城のおひざもと

 周辺には100基以上の古墳や、集落の跡(薬師の森遺跡)も見つかっています。665年に築造された古代山城「大野城」にも近く、この地で暮らしていた人々が山城の築造に関わった可能性があります。

 

古墳の分布

 全部で30基の古墳があり、このうち、27基を調査し、9基を現地で保存整備しています。

 

アジアとの交流を物語る出土品

 古代朝鮮半島新羅で作られた土器や西アジア(現在のイラク)で作られたガラス玉などが見つかっています。

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王城山A4号墳

複室(2つの部屋がある)構造の石室がある古墳(徒歩約5分)

 

雉子ヶ尾古墳

巨石を使用した石室がある古墳

 

特別史跡大野城

日本最古(665年築造)の朝鮮式山城(大野城歴史の散歩道登山口より山頂まで徒歩約1時間30分)

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石室の構造

横穴式石室です。遺体を安置する部屋(玄室)と、玄室に通じる通路(羨道)があり、石を積み上げて入口を塞ぎました(閉塞石)。何度でも開閉可能な石室で、複数の遺体を安置することができる構造です。

 

高度な土木技術

 古墳は人工的な盛土(墳丘)と、内部の部屋(石室)からなります。地面を平坦に造成し、石室を据えるための穴を掘った後、石室石材の設置と墳丘盛土を交互に行いながら高く積み上げていきます。最後に天井石をのせて盛土で覆い完成です。天井石は推定5トン以上の重さがあります。石室をのぞいて見ると当時の高度な土木技術を観察することができます。

 

古墳でのお祭り

 古墳の周りからたくさんの土器が見つかることがあり、古墳や埋葬された人に対するお祭り(葬送儀礼や墓前祭祀)があったことが推測できます。多くの食器や貯蔵具・調理具も含むことから、飲食を伴うお祭りであったようです。また、墳丘の中に甕を埋めることが多く、これは古墳を造るときの儀式と考えられます。

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19号墳の裾につくられた7世紀前半の木棺墓です。たくさんの土器が副葬品として納められ、木の棺を設置するための石が並べて置かれていました。築造時期から、18号墳被葬者の2世代ほど後の世代の人が葬られたと考えられます。

 木棺墓の位置を舗装で表現しています。

 

国内最古級のヘラ書き須恵器

 表面に「奈」と記した土器を副葬していました。国内で漢字が普及する以前のもので、当時最先端であった漢字文化の受容を物語ります。「奈」は、福岡平野のことを示す地名「ナ」を意味する可能性の他、人名や氏族名の一部を表現した可能性があります。f:id:rekiken9:20190508142219j:image

14号墳

 

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16号墳

ー排水溝がある古墳ー

【かたち・大きさ】円形・11m

【つくられた時代】7世紀はじめごろ

【埋葬する部屋】横穴式石室

【見つかったもの】鉄のやじり・耳飾り

 

石室の床面に排水溝があります。石室の床面に排水溝があります。石室は完全な形で残っています。

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石室が完全な形で残る16号墳

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17号墳

ー刀を持つ人の古墳ー

【かたち・大きさ】円形・9m

【つくられた時代】7世紀前半

【埋葬する部屋】横穴式石室

【見つかったもの】鉄の刀

 

石室の入口を塞いだ石を調査時のまま残しています。

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閉塞石

石室の入口を塞ぐために積み上げた石です。発掘調査した時のまま展示しています。

中には入らずにここから見学してください

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18号墳

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地域のランドマーク(18号墳)

築造時期:6世紀後半(善一田古墳群で最初の古墳)

かたち:円墳(二段築成=横からみると麦わら帽子の形)

大きさ:東西26m、南北22m

(6世紀後半の福岡平野で最大級の円墳)

古墳内部:横穴式石室(玄室の高さ3.5m)

副葬品:刀、弓矢、靫・胡簶(矢を入れる容器)、馬具、鉄■(鉄器づくりの道具)、装身具

 

地域のリーダーの古墳

 墳丘・石室の大きさや豊富な副葬品から、この地域一帯を治めたリーダーの古墳と考えられます。副葬品は武器類が多いため武人的な性格がイメージでき、鉄■(鉄器づくりの道具)の存在から職人たちの親方のような性格もうかがえます。

 

石室入口の左側で複数の土器が出土しました。食器類、特に液体に関わるものが多く、古墳の前で飲食を伴う儀式があったと考えられます。

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古墳群から望む大野城市

 

古墳名 善一田古墳群
住所 福岡県大野城市乙金東1丁目9
築造年代 古墳時代終末期
型式 円墳
主体部 横穴式石室
墳丘大きさ 11m(16号墳)、9m(17号墳)、東西26m、南北22m(18号墳)
石室大きさ 玄室の高さ3.5m(18号墳)
指定区分  
駐車場
備考 トイレもある

【福岡県鞍手町】古月横穴


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古月横穴は大正15(1926)年に発見され、昭和7(1932)年に国指定史跡に指定されました。

 古墳時代の6世紀後半から7世紀後半に造られた横穴墓は、現在のところ40基が確認されています。

 これらの墓は硬い岩盤をくりぬいて造られ、墓の内部には赤色の文様や線状に刻まれた文様が施されているものがあります。

 現在の様子は、平成6(1994)年度から実施した発掘調査をもとに復元したものです。f:id:rekiken9:20200605153502j:plain

概要

 横穴墓群は西山山系から東に延びる丘陵に造られ、現在40基が確認されています。横穴墓は、硬い岩盤を刳り貫いて造られ、その年代は出土した土器より6世紀後半から7世紀後半と考えられます。横穴墓内部に装飾文様があるものが3基あり、2、6号墓は硬い道具で線状に文様が刻まれ、9号墓は奥壁と左側壁に朱色で文様が描かれています。

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造られた頃

北部九州は磐井の乱(527年)後、大和朝廷による支配が強められ、その後国内では聖徳太子推古天皇を助け、政治が行われていました。鞍手地域では、遠賀川流域で最大規模の石室を有する新延大塚古墳、銀の冠が出土した銀冠塚古墳が造られました。古月横穴の西側の荒五郎山北西裾部には、集落(向山遺跡群)があり、登り窯(古門窯跡)で須恵器を生産していました。近隣には「浪打」、「掛津」などの水際を示す地名が伝えられていることから、古月横穴の周辺部まで入り江であったと思われ、当時古月横穴より見た風景は一面に海が広がっていたと想像できます。

 

発見された頃

大正15(1926)年の夏、土地の所有者であった白石藤六氏によって発見され、その後、白石氏や旧制鞍手中学校(現在の県立鞍手高等学校)の石塚常彦校長らが中心となって発掘が行われました。翌年の昭和2(1927)年に国の史跡の仮指定を受け、昭和7(1932)年には横穴墓としては、県内唯一の国指定史跡となりました。

発掘調査

保存修理工事に伴って、鞍手町教育委員会が平成6(1994)年度から平成12(2000)年度まで調査を実施し、これまでの調査と合わせ、総数40基の横穴墓を確認しました。調査は保存を目的としたため、新たに発見した横穴墓は、墓道部のみを調査し、すべてを埋め戻しました。

 

出土遺物

これまでに出土した遺物は須恵器・土師器などの土器約500点、刀、鏃などの鉄製品、メノウ製などの勾玉などです。出土遺物は、墓の入口部(墓道)、内側(玄室)などに置かれ、亡くなった人へのお供えものであったと考えられます。

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古墳時代のお墓の種類

土を高く盛り上げて造った古代のお墓を古墳といいます。とくに日本では今から約1750年前から400年間は古墳の造営が大流行したので、この時代を古墳時代といいます。古墳は造られた時期や地域によって墳丘の形や亡くなった人を埋葬する部屋の形が異なります。

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横穴墓の構造

(外部)

入口部の大きさは高さ約90㎝、幅約70㎝で石や板などの蓋で閉塞されています。墓道(入口に通じる道)は短いもので約4m、長いもので10mを超えるものもあります。

 

(内部)

天井は当時の家の屋根を意識した形に造られています。被葬者(亡くなった人)を安置するために、床より一段高い屍床が設けられているものがあり、その一部には頭を置くための刳り貫き状の枕があります。

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発掘調査を元に復元保存されている横穴群

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9号墓の特徴

墓室が大きく、内部に装飾文様が描かれていることから、横穴墓群内では中心的存在であったと考えられます。墳丘は直径約14.5m、高さ約4mで、墳丘の盛土は硬い土や柔らかい土が3㎝前後の厚さで相互に積み上げられています。

 

墓室は奥行3.33m、幅2.5m、高さ1.62mで、奥に被葬者(亡くなった人)を安置する一段高い屍床が造られています。奥壁、左側壁の一部には朱色で彩色された斜めの格子状の文様が描かれています。

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いくつかの横穴は内部を確認出来るようになっている

 

遺跡名 古月横穴
住所 福岡県鞍手郡鞍手町古門
TEL  
年代 6世紀後半~7世紀後半
指定区分 国指定
駐車場