【佐賀県吉野ヶ里町】吉野ヶ里遺跡5(南内郭西側)
「国」の倉と市
南内郭の西側にあるこの地域は、吉野ケ里の「国」の倉と市があったと考えられています。倉は、厳重に濠と柵で区画され重要な物資を収める倉、税を収める倉、市にかかわる倉などがあります。市は、南や西の広場で開かれ、各地からたくさんの人が集まります。中央には、市を管理する建物もあり、その二階では太鼓と旗で市の開催を知らせます。
貢物の倉
中国へ使者を派遣するとき、一緒に持たせる貢物を収めています。
貢物の倉
原料の倉
吉野ケ里で製作される、鉄や銅製品などの原料を収めています。
弥生時代には、鉄板(鉄てい)を曲げて、鉄製品を作っていました。その鉄板は、朝鮮半島や中国から輸入されていたとされています。
鉄鉱石や砂鉄から鉄を作り出す技術は、弥生時代には無かったとされていますが、ここでは参考に展示しております。
鉄を作る時に必要な鉄鉱石
稲籾の倉
軍事のための備蓄や「国」の財力を示すため、籾を収めています。
稲籾
武器の倉
戦いに備えるため、多くの武器を保管しています。
武器
稲穂の倉
吉野ケ里の「国」の各地から、税として納められた稲穂を収めています。
稲穂
雑穀の倉
吉野ケ里の「国」の各地から、税として納められた雑穀を収めています。
市の倉
市で取引を許された人々が差し出した貢物を収めています。
稲籾の倉
脱穀した籾を、倉いっぱいになるまで収めます。
市楼
市楼は、ここで開催される市を管理する建物です。下の階で市に参加する許可をもらいます。上の階には市の開催を知らせる旗と太鼓が置いてあり、兵士が見張っています。
市楼
兵士の詰所
市を警備する兵士は、ここで見回りの順番がくるのをまっています。
兵士の詰所
市長の住居
市を治める市長は、この区域で暮らしながら市の管理をします。遠くから来た人々があいさつに来ています。
兵士の住居
市を警備する兵士たちは、この区域で暮らしています。
次回は、南のムラです
環濠広場&逆茂木 |
南内郭 |
北内郭 |
北墳丘墓 |
南内郭(西側) |
南のムラ |
【佐賀県吉野ヶ里町】吉野ヶ里遺跡4(北墳丘墓)
北墳丘墓・立柱・祀堂・墓道
北墳丘墓は歴代の王の墓であり、西には濠をわたって走る墓道、南には祖霊の宿る立柱と、歴代の王の祖霊へお供えやお祈りを捧げる祀堂があります。
ここは、吉野ケ里集落を築き上げた祖先の霊を祀る神聖な区域と考えられています。
至る所に、甕棺墓の模型が作られています。実際、大量に当時のお墓があったようです
墓道
北墳丘墓にお参りするための専用の道と考えられています。この道は外環濠の外から延びており、吉野ケ里集落だけではなく、周辺集落を含めたこの地域の「クニ」全体の人々が北墳丘墓にお参りするための道であったと考えられています。
祀堂
歴代の王の祖霊へお供えを捧げ、お祈りをする建物です。
祀堂
祖霊の宿る柱
祖霊の宿る柱とは、北墳丘墓を守る祖先の霊が宿る柱と考えられています。
北墳丘墓は、弥生時代の後半にはお墓ではなく、祖先の霊をまつる祭壇として人々の信仰の中心となります。
北墳丘墓
弥生時代の中頃、吉野ケ里を治めていた歴代の王の墓と考えられています。中からは14基の甕棺が見つかっており、一般の墓とは違い、ガラス製の管玉や青銅の剣など、貴重な副葬品が納められていました。北墳丘墓に葬られている人々の身分の高さを示しいます。
北墳丘墓
2100年前の王の威光
今からおよそ2100年前、この地に葬られた人々がいました。その人々は、吉野ケ里集落の歴代の王だと考えられています。
永い眠りから覚めた彼らが語り掛ける当時の世界をご紹介します。なお、正面の発掘状況の展示のうち、遺構面と甕棺は本物を展示しています。
吉野ヶ里遺跡の歴代の王が埋葬されているお墓の北墳丘墓は、室内施設になっており、実際の発掘現場をそのまま残しています
次回は、倉と市編です
環濠広場&逆茂木 |
南内郭 |
北内郭 |
北墳丘墓 |
南内郭(西側) |
南のムラ |
【佐賀県吉野ヶ里町】吉野ヶ里遺跡(北内郭)
北内郭・北墳丘墓・中のムラ
環濠集落の最も北にあるこの地域は、吉野ケ里の「国」の、まつりごと(祭りや政治)の中心であったと考えられています。北に歴代の王の墓があり、その南にまつりごとを行う北内郭、北内郭の西側に特別な倉庫群と北内郭の行事を補佐する人達が住む中のムラがあります。
酒造りの家
女性たちが、その年に収穫された米を蒸して祭りや儀式で使う酒をつくる家です。
北内郭(王の宮殿)
吉野ケ里のまつりごとを司る最重要区域です。田植えや稲刈りの日取り、戦いた狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定されたと考えられています。こうしたことから、当時は指導者たちだけが出入りできた神聖かつ特別な場所であったようです。
主祭殿
吉野ケ里のまつりごとを司る最重要施設です。ここでは指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などを執り行われていたようです。発掘調査の成果や古代中国の事例などを参考に高さ16.5mで復元しています。
主祭殿
最高司祭者の神がかりの様子
最高司祭者(巫女)が、祖霊からお告げを授かるために、蔓を頭や身体にまき、手に小笹を持って、琴の音に合わせて神がかりしようとしています。巫女の発するお告げを、聞き分け、伝える人が、控えています。鏡や玉・剣は、巫女が、祖霊と交信するための祭具です。
内部の2階では指導者達が政の方針について話し合ってます
神がかりの様子
斎堂
斎堂は主祭殿と東祭殿との間に位置することから、まつりの時に身を清めたり、まつりの儀式に使う道具などが置かれていた施設と推定しています。
祭りのための準備空間
斎堂の中は、網代と帳によって二つに仕切られています。奥の部屋は沐浴をして身を清める(潔斎)場所で、そのために必要な道具類(棺・風呂桶のようなもの=や、水を入れる甕など)が置かれています。手前の部屋は脱衣を行う場所で、衣服を入れる衣装台などが置かれていたと考えられています。
建物の性格上、普段は使用されず、締め切られていたと考えられます。
古代中国や、少し後の時代の日本の文献、他の遺跡からの出土資料などを参考に復元されています。
斎堂
竪穴住居(従者の住まい)
北内郭で唯一の竪穴住居です。これは最高司祭者の最も身近に仕え、その世話に当たる従者の住居であったと推定しています。
高床住居
神聖な区域の中にあり、高床倉庫とは違ってほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ケ里の最高司祭者の住まいだったと考えられています。最高司祭者は、一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかったと考えられており、まさしくプライベートな空間だったと思われます。
高床住居
物見やぐら
南内郭の物見やぐらと同じく、敵を見張るための役目を持つ建物と考えられていますが、この区域の特色から、もう一つ、四方をまつる役目も持っていたと考えられています。南内郭の物見やぐらと少し形が違うところに注目してみて下さい。
物見櫓。南内郭のものと形が違います。
東祭殿
東祭殿は、北内郭の中心線である夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にあることから、季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられています。また、何度も建て替えられた跡があることから、まつりなどが行われるたびに建て替えられたのかもしれません
東祭殿
次回は北墳丘墓編です
環濠広場&逆茂木 |
南内郭 |
北内郭 |
北墳丘墓 |
南内郭(西側) |
南のムラ |
【佐賀県吉野ケ里町】吉野ヶ里遺跡(南内郭)
南内郭編
南内郭
南内郭は吉野ケ里の「国」の「大人」たちが暮らしながら、「国」の政治を執りおこなっていた場所と考えられています。要所に物見櫓があり、広場を中心に「王」や「大人」の竪穴住居や煮炊屋、集会の館があります。「大人」たちの中で最高の権力者が「王」と考えられています。
南内郭の門
南内郭には、南の正門、北の脇門があります。正門の両脇には、物見櫓がそびえています。
南内郭
吉野ケ里の2つの中心区域のうち、南側にあるものを南内郭と呼んでいます。濠と柵で厳重に囲まれ、中には物見櫓も設けられています。こうした特別の空間であることから吉野ケ里の指導者たちの生活の場であると考えられています。
物見櫓の上から望む南内郭
「大人」の妻の家
ここは軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の妻の家です。中では母親が櫛で娘の髪を梳いています。
「大人」の家
ここは軍事や土木工事を取り仕切る「大人」と家族の家です。中では、道具の出来具合を見ています。
大人の妻の家
大人の家
「王」の家
ここは「王」と家族が暮らしている家です。「王」の力を示す品々が枕もとに置かれています。
王の家
「王」の娘夫婦の家
ここは「王」が結婚した娘のために建てた家です。
「王」の妻の家
ここは「王」の妻の家です。外で機織をすることもあります。
王の妻の家
煮炊屋
煮炊屋は食事を作る建物です。ここで作られた食事は「王」や「大人」たちの家へと運ばれます。
煮炊屋
「大人」の家
ここは外交を取り仕切る「大人」と家族の家です。中では「大人」がよその「国」の使者から話を聞いています。
大人の家
こちらは、防具。南内郭は主に生活の場の空間だったのでしょうね。
環濠広場&逆茂木 |
南内郭 |
北内郭 |
北墳丘墓 |
南内郭(西側) |
南のムラ |
【佐賀県吉野ケ里町】吉野ヶ里遺跡1(環濠広場&逆茂木)
建物等の復元整備について
本公園は、特別史跡吉野ヶ里遺跡の保存及び活用を図るため、遺構全体を土で覆って遺構を保護し、その上に当時(弥生時代の終わり頃)の建物などを復元する整備を行っています。
建物等の復元整備にあたっては、吉野ヶ里遺跡の発掘調査資料だけでは立体的な復元は不可能であったため
・中国の文献や関連する資料
・民族(俗)事例
などを参考に、考古学、古代建築学、民族(俗)学、生活史等の専門家からなる委員会で検討していただき、当時の吉野ケ里の様子を推定し復元を行っています。
したがって、本公園で復元している建物等は、現時点では当時のものに最も近い形で出来ていると考えられていますが、この他にもいろいろな意見をお持ちの研究者がおられます。
今後の調査研究により、新たな発見や考え方(知見)があれば修正も必要と考えています。
弥生時代と吉野ケ里
弥生時代とは、今から1700~2300年前、およそ600年間続いた時代です。吉野ヶ里遺跡は、この弥生時代600年間の流れを辿っていける全国唯一の遺跡です。現在復元しているのは、今から1800年前頃の吉野ケ里の姿です。みなさん、ゆっくり弥生の世界を楽しんで下さい。
鳥居の様なものの上に鳥が3匹……
環濠を張り巡らせています
逆茂木(乱杭)
米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになりました。人々は自分たちの集落を守るため、集落の入口など特に重要な区域には、とがった木の枝や幹でバリケードを築き、より厳重に守っていました。これを逆茂木と呼んでいます。
逆茂木(乱杭)
次回、南内郭編
環濠広場&逆茂木 |
南内郭 |
北内郭 |
北墳丘墓 |
南内郭(西側) |
南のムラ |
【宮崎県日向市】五十猛神社
宮崎県日向市の五十猛神社
創立年月日は不詳であるが、元禄年間(1688~704)豊後の国、日田の代官小長谷勘左衛門が当地を差配していたとき、当地に勧請したという。しかし、当社の手水鉢には寛延四年(1751)末九月吉日と刻んであり、これを基とすれば数十年ほど後の時代ということになる。何処の地より勧請したか不明だが、和歌山に伊太祁曽神社(イタケソ)があり五十猛命を御祭神とするので多分このあたりであろう。
御祭神の五十猛命は素戔嗚尊の御子神で、天降りの時に、天津樹種を持ち下り、植林を奨められた神で、けだしい入郷地区の山林・木材の搬出の要衝の地である現在地に祀ったと考えられる。
なお境内に粟島神社があり、少彦名命、神功皇后を祀ってある。民間では紀伊国名草郡加太神社の祭神少名彦名命のことを粟島殿といい、俗に婦人病に霊験のある神として、その功徳をかしこみ勧請されたのであろうか、現在でも縁結び、安産の神として庶民の信仰が篤い。明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
拝殿
本殿
神社名 | 五十猛神社 |
住所 | 宮崎県日向市財光寺 大字財光寺往還町7260 |
TEL | 0982-54-6607 |
御祭神 | 五十猛命、磐長姫命、木花開耶姫命、宇賀魂命、建御名方命、菅丞相 |
創建年 | 不詳 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 無 |