【佐賀県吉野ケ里町】吉野ヶ里遺跡6(南のムラ)
南のムラ
環濠集落の南部にある「南のムラ」は、庶民が暮らす村です。人々は農耕や生活に必要な様々な道具作りを行いながら、北内郭や南内郭の支配層の生活を支えていました。
蚕について
蚕は、チョウやガの仲間です。成長して繭をつくります。繭の中で蛹になり、さらに成長して成虫(ガ)になります。
繭は一本の糸からできており、絹として古くから利用されてきました。絹をとるために蚕を育てることを「養蚕」といいます。
養蚕の歴史について
養蚕は古代中国から始まったといわれています。日本の養蚕に関しては、中国の歴史書「魏志倭人伝」に、卑弥呼が魏の朝廷に使いをやって、日本の絹を献上したことが書かれています。つまり、弥生時代後期には日本でも絹が作られていたようです。
吉野ケ里遺跡と養蚕について
吉野ケ里遺跡でも糸を紡ぎ、布を織っていたことを示す紡錘車(糸によりをかけるのに使う)などが出土しているほかに、甕棺の中から弥生時代の布片(絹や麻の織物)が多く発見されています。発見された絹は、日本産の絹糸で、数種類の織り方があったようです。また、絹布の中には、貝紫や日本茜で染められたものや、縫い目の残るものも見つかっており、弥生の高度な文化がうかがえます。
北の一家
この一家は農作業をしながら、麻布や絹布の生産をしていました。
北の一家
集落
「南のムラ」では、いくつかの家族が、畑や水田での農耕や生活に必要な様々な道具を作りながら暮らしていました。
集落
ムラ長の一家
「南のムラ」をまとめていたムラ長一家の敷地には、住居や倉庫以外にも大型の倉庫や集会所などの建物がありました。
ムラ長の家
南の一家
この一家は農作業をしながら、祭壇での儀式の手伝いや、西側の出入口の警護をしていました
祭壇
祭壇は、北内郭や北墳丘墓と共に、重要な祭りの場で、吉野ケ里の人たちが信じている天や地、水などの神霊への祭りが行われていました。祭壇からは貝殻や鳥の骨などを入れた壺が見つかっています。また、今後も発掘調査が行われる予定です。
環濠広場&逆茂木 |
南内郭 |
北内郭 |
北墳丘墓 |
南内郭(西側) |
南のムラ |