【宮崎県日南市】堀川橋
堀川橋は、堀川運河の掘削により分断された油津の町をつなぐ橋として、明治36年(1903)飫肥の石工 石井文吉によって架けられた単アーチの石橋である。吾平津神社(通称:乙姫神社)の参道橋の役割も兼ねているため、乙姫橋とも呼ばれている。
明治の中頃までは油津板橋という木橋があったが、永久橋を望む油津町民の願いから、約4年の歳月をかけ石橋へと架け替えられた。堀川橋の下流側には、現在でも油津板橋の橋脚を立てたと思われる岩を彫り込んだ円形の穴を見ることができる。また、船の航行ができるよう橋のアーチを高くする必要があったため、両岸の道路を約3mかさ上げしている。このため、堀川橋周辺の家屋には、道路に面する2階が玄関となる家屋があり、独特の景観となっている。
堀川橋周辺は、港町油津と堀川運河の代表的な歴史的景観であり、平成4年(1992)には「男はつらいよ 寅次郎の青春(第45咋)」のロケ地となった。
堀川橋
遺跡名 | 堀川橋 |
住所 | 宮崎県日南市油津1丁目1−5 |
TEL | |
年代 | 1903~ |
指定区分 | 国登録有形文化財 |
駐車場 |
【宮崎県日南市】吾平津神社
宮崎県日南市鎮座の吾平津神社
アヒラツヒメ(吾平津媛)
吾平津神社の御祭神・アヒラツヒメは、吾田の小崎の君の娘として生まれ、十五才で皇太子となったカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)と結婚し、子供(手研耳命)にも恵まれ、幸せな暮らしを送っていた。やがてカムヤマトイワレヒコは、よりよく国を治めるために兄等と相談され、日向の美々津から東に向けて旅立つが、吾平津媛は同行されず、この地よりその成功をお祈りしたという。
当社は元明天皇の御代の和銅二年(709年)の創建にて、乙姫大明神と称して、江戸時代、飫肥十一社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊藤裕帰知事の意により吾平津神社と改称され、昭和八年郷社となる境内に御門神社二社があり櫛磐間戸命、豊磐間戸命の二柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、又豊漁及び商売繫盛の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」挟野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり「古事記」によれば、お二人の間には「多藝志美々命」、「岐須美々命」二人の皇子ありとあり、又、「日本書紀」によれば「手研耳命」お一人の皇子ありとある。神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立て大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、商売繁盛、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
拝殿
本殿
神社名 | 吾平津神社 |
住所 | 宮崎県日南市材木町9−10 |
TEL | 0987-22-2863 |
御祭神 | 吾平津昆売命、天照大御神、武甕槌命、倉稲魂命、天児屋根命、木花咲耶姫命、経津主命 |
創建年 | 709年 |
社格 | 郷社 |
建築様式 | 神明造 |
駐車場 | 有 |
御朱印 |
【宮崎県日南市】吾田神社
宮崎県日南市鎮座の吾田神社
創建後幾度か改築が重ねられ、天正十七年(1589)飫肥藩初代藩士伊藤祐兵が再興、社領十二石五斗の寄進が続けられ、飫肥藩十一社の内二社、吾田神社、田ノ口神社、崇敬篤かった。『日向地名録』によると、田ノ口大明神、一名、火焼ノ宮と称し、本社の東北の田の中にあったものを明治五年合祀した。また、手研耳命は、神武天皇と吾平津媛命の間に生まられた長子であり、命は天皇が宮崎におられた頃は平山の駒宮あたりに住まわれたので、駒宮辺りを別府、宮崎を新別府と称した。手研耳命が亡くなられると、吾田の小崎に葬り、その小崎は、今の神社の下を昔から小崎といっており、神殿の裏山上に古墳とみるべき地があるのを手研耳命御陵としている。(飫肥伝説録)明治四十年二月。神饌弊■料を供進すべき神社に指定昭和九年神武天皇御東征二千六百年祭に際し、神殿・拝殿ともに改築して宮崎県奉賛会から顕彰され、昭和十五年には、県奉賛会が「神武天皇巡幸伝説地吾田」の石碑を献納。「神武天皇御東遷ニ先ダチ宮崎ノ宮ヨリ妃吾平津媛命乃皇子達ヲ随へ妃ノ御出生地タル此ノ地ニ至リ暫ク御駐輩アラセシト伝フ」と刻されている。
拝殿
本殿
神社名 | 吾田神社 |
住所 | 宮崎県日南市戸高878−2 |
TEL | 0987-23-3018 |
御祭神 | 吾平津媛命、手研耳命、天穂日命 |
創建年 | 708年 |
社格 | 村社 |
建築様式 | 神明造 |
駐車場 | 有 |
御朱印 |
【宮崎県日南市】田ノ上八幡神社
宮崎県日南市鎮座の田ノ上八幡神社
田ノ上八幡神社と樟
この田ノ上八幡神社は飫肥城の一角八幡城にあったが、天正16年(1588年)飫肥藩初代、伊藤祐兵公が、この地に還宮したものである。そのときの記念として祐兵公自身の手植による樟があり樹高30・5m、周囲8・8m、樹齢約400年といわれ天然記念物として市の指定がされている。
八幡神社境内のクス
天正16年(1588)、伊藤祐兵が飫肥に入城して伊藤家を再興した際、その記念として祐兵が手植えしたと伝えられている。推定樹齢は約410年、樹高30m、幹周9・2mにもなる。
一説には、大隅国桑原郡の稲積弥五郎がその地の一宮正八幡の神体を背負い来て、この地に祀ったとされている。
現在もその故事により「弥五郎人形行事」が毎年11月に行われており、宮崎県の無形民俗文化財に指定されている。
御神木
拝殿
本殿
神社名 | 田ノ上八幡神社 |
住所 | 宮崎県日南市飫肥10丁目3−12 |
TEL | 0987-25-1412 |
御祭神 | |
創建年 | 1588年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【宮崎県日南市】郷原神社
宮崎県日南市鎮座の郷原神社
郷原神社は、旧称が山宮神社。明治初期に全国で行われた神社の統合により、郷之原にあった十三社を合祀して、郷原神社と名称を変更する。
山宮の歴史は、古く、およそ二千年前の弥生時代に起源する。『山宮』とは、山の頂上付近にあった山の霊を祭る『場所』をさしていて、そこで稲作の祭りが行われた。
全国の歴史ある大社・小社の多くは、山を背に社殿が設けられている。現在でもその山の中に『山宮』という地名が残っている場合がある。
郷原神社の『山宮』も山の頂上付近にあった山宮の名残りで神社名として長く使われたのであろう。
神社の最も古い宝物は、天正年間のもので四百年以上前のものである。
江戸時代になり、幕府の法度である「神社条目」(寛文五年)により、江戸時代の神主は、京都・吉田家、白川家によって統制されていくが、代々鵜戸山神主であった松田家の松田権太夫は、延宝二年(1674年)に吉田家より法度の定による鵜戸山祀官(宮司)になり、それ以降幕末まで二百年に亘り代々松田家が現在の郷原神社・潮嶽神社・宮浦神社・大藤神社・住吉神社を含め北郷・日南の二十数社の正祀子(宮司)を兼任した。
明治になり、各村の社に神主が立つようになり、現在に至っている。
拝殿
本殿
神社名 | 郷原神社 |
住所 | 宮崎県日南市北郷町郷之原乙5032 |
TEL | 0987-55-2131 |
御祭神 | 大山津見神、活津彦根神 |
創建年 | |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 |
【福岡県久留米市】日吉神社
承平二年九月(932)今より約千年余前宮一品、兼基親王、山王宮を御建立せられる。これが当地に日吉神社が鎮座された初めである。戦国時代天正七年(1579)社屋兵火により焼失したが、寛永九年(1632)国分村庄屋国分十右エ門により再建され、従来住民は産土神(生まれ土地の主護神)として尊崇して来た。明治四十四年国分村内の八神社の御祭神を当日吉神社に合祀し六柱の御祭神を奉祀している。
拝殿
本殿
神社名 | 国分日吉神社 |
住所 | 福岡県久留米市国分町711−1 |
TEL | 0942-22-1939 |
御祭神 | 大山昨命、安徳天皇、少彦命名、仁徳天皇、神功皇后、菅原道真 |
創建年 | 932年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |