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歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【九州八十八箇所百八霊場】77番 最教寺

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高野山最教寺

真言宗智山派(伽藍案内)

 

本堂・・(本尊)虚空蔵菩薩、その他松浦家第25.26.27代の尊像を祀る

奥之院・・(本尊)弘法大師、その他聖観音菩薩、薬師如来など

三重塔・・(本尊)不動明王、その他地蔵菩薩など

愛染堂・・(本尊)愛染明王、その他魚藍観音など

鎮守・・最教寺鎮守の神、その他恵比須天など

霊宝館・・仏教美術展示
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霊宝館(最教寺の寺宝展示)

平戸藩の確立者 松浦鎮信公の寄進された仏涅槃図(重要文化財)を中心に仏像・絵画・経典・版木および民俗資料を展示している。

展示内容

・仏涅槃図(朝鮮招来ー重要文化財

・仏頭(朝鮮招来)

阿弥陀三尊像、釈迦思性像(シャム招来)

・掛け仏(県指定文化財

・両部曼荼羅・羅漢図・来迎図

・梵綱経・般若心経(伝弘法大師)・大随求経版木

仁王般若経版木(観中公直筆ー市指定文化財

・道真公写経・安満岳系譜仏具などまた撫で仏(涅槃像)をお祭りしている。
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高野山最教寺奥之院

 

九州八十八ヶ所霊場第七十七番

九州観音霊場第三十番

本尊:弘法大師(共祀:薬師如来聖観音不動明王等)

毎月:15日大師誕生供、20日大師御影供護摩

内殿(奥の院)は第二十六代平戸藩主鎮信公によって建立されたもの(1609年)であり、ほぼ当時のままの姿を残している(最教寺建立より二年後)

 

拝殿は昭和二年に平戸島を中心にした大師信仰の人々によって建立され、平戸地区の大師信仰の中心的役割を担ってきた。堂内には、光倫作の大師の伝記絵(行状絵巻)を掲げている。また、境内には、大日如来阿弥陀如来、修行大師、不動明王のほか、豪潮の宝篋印塔や鯨編みの捕鯨塔がある。

全国的に有名な子泣き相撲は当境内にて節分の日に行われる。
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観中公等身の不動明王

 

この不動明王は三重大塔内にお祀りしている。観中公(第35代平戸藩主)等身とされる不動明王秘仏)を写し彫ったものです。不動明王は火生三昧に住し暴風雨のようなとてもつない力で、あらゆる障害や煩悩を焼き尽くす働きをしています。大日如来の命によって悟りに向かって修行している人に仕え、またあらゆる苦しんでいる人々を救います。観中公は仏教を大変保護した方で平戸八十八ヶ所も建立しています(江戸後期)
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三重塔

 

寺名 最教寺
住所 長崎県平戸市岩の上町1206−1
TEL 0950-22-2469
本尊 虚空蔵菩薩
創建年  
駐車場  
備考  

【九州八十八箇所百八霊場】79番 善福寺

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長崎県松浦市の善福寺
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長崎県指定有形文化財

 

善福寺鰐口

 

松浦家の初祖久公を祀る今宮神社の別当寺善福寺に松浦丹後亀童丸が正平十年(1355)に諸人の円満を祈願して寄進した青銅製の鰐口で、軒に吊るして打ち鳴らす梵音具である。

 南北朝時代の在銘の鰐口は少なく、作柄もよく、しかも歴史的にも貴重な資料である。

 

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五輪塔について

 

 五輪塔は、菩提を弔うための塔婆(塔)の一つの形式で、平安時代中期前に密教(当山も真言密教の寺院です)において創始され、鎌倉時代以後、各宗派に広がっていきました。

 この形式は「五輪五大」の思想からきており(下の方から)「基礎が方 塔身が円 笠石が三角 受花が半月 宝珠が団」の形を示し、それらの各部(輪)が(下の方から)「地 水 火 風 空」の五大を表しています。

 元来は供養塔ですが、墓の上に置いて墓塔としているものもあります。

 塔の姿は時代によって異なっており、ここにあるものは、鎌倉時代から室町時代にかけてのもので、宗家松浦(今福松浦家)の武士を供養したものと思われます。
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五輪塔
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山門
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『雷柿の木』の由来

 今から百年以上も昔、天空の仏が不作に苦しむ諸人を救わんと、雷神を伴い自らも雷神の姿となり、閃光と轟音を発し、境内の二本の柿の木に降りてこられました。

 雷神の姿となった仏が下った柿の木は、大きな衝撃で幹は裂けて、うろ(空洞)ができました。仏は、この柿の木が末永く生き続けることを確かめられたのち、神の木の姿をした神として、又、うろの中では本来の仏の姿となって、今日も五穀豊穣を叶える神として座しておられます。

 農業国であった我が国では、昔から雷の光は稲を育てると信じられ、稲妻を発する雷は農業神として崇められています。

 神仏の力を秘めたこの二本の柿の木は『雷柿の木』と呼ばれ、今も大切に守られています。
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「松豊山 善福寺」について

 

 当山は市内唯一の弘法大師を宗祖とする真言寺院で、九州八十八ヶ所、百八霊場巡りの第七十九番札所となっております。

 この善福寺の歴史は古く、鎌倉時代末期に宗家松浦(今福松浦家)の祈願所として寺上の地に創建され、松浦氏の始祖を祀る今宮神社の別当寺(神職が祀りを兼ねる寺)となっておりました。

 その後、時を経て江戸時代の千七百年頃、幕府旗本今福松浦家、第二十三代当主豊公の助力を得て、仏坂の地に下り、松浦山善福寺として中興開山されました。松豊山の号は、公を敬い御名の「松浦源豊」をもって命名したものです。

 本堂入口に掲げられている額には「枩豊山」の号とともに「源豊」の名が刻まれており、開山時の今福松浦家との関わりを知ることが出来ます。又本堂には、創建当時の歴史をかたる県指定文化財の「善福寺鰐口」が有りますので是非ご覧下さい。

寺名 善福寺
住所 長崎県松浦市今福町仏坂免910
TEL 0956-74-0145
本尊  
創建年 鎌倉時代末期
駐車場  
備考  

【九州四十九院薬師霊場】31番 相良寺

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本日は当山に御参拝致さり、親しく観世音菩薩の大慈悲心に■■せられます。桟会を御持ちになられました事を衷心より御慶び申し上げます。

当山の御本尊(千手千眼観自在菩薩)は過去七百五十年の前に三回修理の記録がございまして、此の慶び御本体の修復、箔替等の工事を本年の五月より開始致し七月一日開眼供養会を厳修致す事が出来ました事は是れ一重に有縁の皆様の御力によるものと深謝致して居ります。

当山の御本尊様は、皆様の心の悩みの他あらゆる願意を必ず御叶えになる広大無辺の御力を御伝えになって居られますので御遠慮なく当職迄御申し出下さい


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本堂

 

寺名 相良寺
住所 熊本県山鹿市菊鹿町相良370
TEL 0968-48-9144
本尊 千手千眼観自在菩薩
創建年  
駐車場  
備考  

【九州三十六不動霊場】21番 蓮華院誕生寺奥之院

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熊本県玉名市の蓮華院誕生寺奥之院
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皇円大菩薩様と蓮華院誕生寺

 

 当奥之院の本寺は、この南4キロの地にある真言律宗別格本山「蓮華院誕生寺」である。蓮華院は今から約九百年の昔、肥後阿闍梨皇円上人(後の皇円大菩薩様)御誕生の地という縁起を以て八百余年前、皇円上人の法孫「惠空上人」によって建立された寺院で八町八反の境内を有する大寺院であった。皇円上人は、関白右大臣藤原道兼卿から五代目の斎宮の長官三河守・豊前守・従五位、藤原重兼公の長子として、この肥後の国、玉名市築地にご生誕。のち比叡山に登られ、八十年余年の修業を重ねられ、三十五才にして『扶桑略記』をご編■。「当時第一等の人」「当代随一の碩学」とたたえられ親鸞上人の師、法然上人など、数千の弟子を訓育された。八十有余年の修行の末、衆生のなやみ苦しみは因縁から起きているが、それら困難を探り知りそして除くことは、五十年や百年の修行では期し難しい。長い寿命を保つという龍に身をかえて修行するより他に道はない。として嘉応元年六月十三日(西暦1169年)静岡県の桜ヶ池に龍神に化して御入定された。以来、七百禄十年を経た昭和四年十二月十日、川原是信大僧正(蓮華院の中興の祖、奥之院の開山)旧蓮華院の草堂において祈念されると突如、皇円上人のご霊姿あらわれて給うて「われは今より七百禄十年前、遠州桜ヶ池に菩薩行のため龍神入定せし皇円なり、今心願成就せるをもってその功徳を汝に授く、よって今より衆生済度と蓮華院の再興にあたれ」との御霊告を守り、皇円大菩薩の絶大なる御霊力の加護のもと天正十年(1582年)戦国時代の戦火によって焼失した旧蓮華院を再興された。是信大僧正様は度重なる修行によって天眼さらに開け、無双の功徳力を得、以来、ご霊示に従って済世利人の実をあけられた。昭和四十三年には皇円大菩薩様の桜ヶ池ご入定八百年ご遠忌大法要を厳修。これを記念してここに約六十町歩(十八万坪)の境内を有する。「奥之院」の建立を発願された。かくて昭和五十三年十一月十三日、五重御堂の完成を期に「落慶大法会」を修し、ここに之を記す。
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佛音讃辞

 

この大鐘を飛龍の鐘という。大梵鐘は、これ皇円大菩薩。皇円大菩薩は、これ大梵鐘

その御相は大菩薩の御徳にして、その音声は大菩薩の御声なり。

 

その功徳たるや、

飛龍の仏音ひとたび轟けば、地獄のともがらも獄鬼の手から逃れ、無明の衆の罪障を消滅す。

 

その願うところは、

抜苦与楽(苦患を抜きて、常楽を与え)

離業得脱(悪業を離れて、解脱を得せしむ)

故に、その径、九尺五寸なり。

 

三つ突くを本義とす

一つはこれ、過去の罪障消滅、先祖供養のためなり。

二つはこれ、現在の諸願成就、家内安全のためなり。

三つはこれ、未来の福徳円満、成功成就のためなり。
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飛龍の鐘の由来

 

 この大梵鐘は、京都で造られた世界一の大梵鐘で、昭和52年5月、瀬戸内海を渡り国道を通ってここに納まりました。

 大梵鐘は、奥之院への六トン車以上は登れない狭い山道を、ご本尊皇円大菩薩様の御霊力と中興開山川原是信大僧正様の真言秘密のご祈祷によって、わだち一つ付けることなく、一時間余りでこの奥之院に参りました。

(あたかも飛来したかのように思われたので「飛龍の鐘」といわれています)

 

梵鐘を撞いてご祈願のお方は

1この大梵鐘は毎朝六時からの「勤行」の時に撞きます。

2毎日正午に、世界平和を祈って参詣者の中から六名を選んで後綱を引いてもらって撞きます。

3毎月第一日曜日に修される五重の塔で功徳行を修した人々の「成満祈願」に撞きます。

4家内安全・商売繫盛・当病平癒などを祈られる「梵鐘祈願をお申込みのお方に随時に撞いてもらいます。

 

飛龍しらべ

直径 九尺五寸 2.88m

厚さ 一尺 32㎝

高さ 十五尺 4.55m

重さ 一万貫 3万7500㎏
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飛龍の鐘
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開山堂

 御開山堂は蓮華院誕生寺の奥之院を開山された故川原是信大僧正様の「みたまや」です。

 皇円大菩薩様ご入定の月日と同じく、明治29年6月13日に皇円大菩薩の再来としてご誕生になった是信大僧正様は、大菩薩様のご霊告を頂き功徳をさずかって蓮華院誕生寺を再興され、衆生済度に挺身されました。昭和43年には、総本山奈良の西大寺から「大僧正」の階位と「別格本山」の寺格を授かられ昭和45年にはここに奥之院の建立を発願されました。

 昭和52年12月20日82歳の御時安祥として御入定になり、この開山堂から全国の衆生信者の済度に努めておられます。
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皇円大菩薩
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五重御堂
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仁王門
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護摩

 

寺名 蓮華院誕生寺奥之院
住所 熊本県玉名市築地1512−77
TEL 0968-74-3533
本尊  
創建年  
駐車場  
備考  

【九州四十九院薬師霊場】47番 永勝寺

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日本三薬師 永勝寺

 

 天武八年(680)十一月、天武天皇は皇后の御病気御平癒を祈願のため薬師寺を建てられた。

 ここ永勝寺も、勅願所として「宝祚長久万民快楽」を祈願され、三年に一度の星祭りも行われ、その霊験の程を大いに喜ばれて寺田を賜り、七堂伽藍が建立されて三十六坊を有したと伝えられる。

 降って白河天皇はことのほか尊崇され、勅願数回に及んだ。当時の本坊を禅定坊と称し、「出雲の一畑」「伊予の山田」と共に日本三薬師と仰がれ、鎮西一の巨刹としてその偉容を誇った。その後、兵火などによる荒廃や再興を繰り返して今日に至っている。

 境内には、学問の仏「文殊菩薩」、百日ぜきの仏「こうばし地蔵」、五百羅漢、市文化財の「けんぽ梨」、柳坂の地名を思わせるアカヤナギの大木なども見られる。

 また、寺には大聖歓喜天、陶製四耳壺蔵骨器や大蔵経六百余巻などが寺宝として保存されている。
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日本三薬師 永勝寺

 

天武八年(680)、天武天皇は皇后の御病気御平癒を祈願するため薬師寺を建てられ、この永勝寺も祈願所として「宝緑長久万民快楽」を祈願、三年に一度の星祭りも執行されました。天皇はその霊験の程を大いに喜ばれて寺田を賜り、七堂伽藍が建立され、三十六坊を有したと伝えられます。

 のちの白河天皇もことのほか尊崇され、勅願数回に及びました。当時の本坊を禅定坊と称し、「出雲の一畑」「伊予の山田」と共に日本三薬師として、また鎮西一の巨刹としてその偉容を誇りました。そうした歴史の古さは境内から出土した奈良・平安・鎌倉期の古瓦および陶製四耳壺蔵骨器などからもうかがえます。

 その後南北朝時代に兵火、戦国期の大友氏の焼討にもあい、天正十五年(1587)にキリシタン大名毛利秀包が当地方を領有した時にも堂宇仏像のほとんどが放火にあいましたが、筑後新領主田中吉政の代に再興され、草堂に薬師仏が奉安されました。その後は一薬師堂草庵として村民によって維持さりたり、荒廃と再興をくりかえし今日にいたっています。

 現在の本堂は明治九年、戸長・村民相計って建立されたもので、明治七年建てられた説教所(この時曹洞宗になる)を正式に永勝寺として再興発展させたものであります。
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本堂

 

寺名 永勝寺
住所 福岡県久留米市山本町2155
TEL 0942-44-1386
本尊 薬師如来
創建年 680年
駐車場  
備考  

【九州西国三十三観音霊場】18番 観興寺

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福岡県久留米市の観興寺
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山本山 観興寺

 

 山本山普光院観興寺は曹洞宗名刹で、天智天皇の御代、白雉年中(650年頃)草野太郎常門が豊後国串川山(現日田市)に狩りをし、榧(かや)の木の霊木を得て、これで千手観音の像を彫刻し、それを本尊として当山を開基、伽藍堂坊三十六坊を建立したのが始まりといわれています。

 特に天智天皇により「普光院」の勅額を賜ったほどで、境内の小池から、太宰府の都府楼と同じ「観興寺」の銘の入った布目瓦が出たことがあり、草野氏の信仰と当時の隆盛がしのばれます。

 寺宝としては、千手観音の霊木にまつわる鎌倉後期の作と伝えられる「観興寺縁起」二幅があり、重要文化財として指定され、現在国立博物館に保存されていますが、同寺には、天保十一年(1840)に描かれた写図があります。
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籃胎漆器の元祖

近藤幸七翁の碑

 近藤幸七 竹細工師

嘉永七(1854)年~昭和十六(1941)年

 

 幸七翁は、山本村(現・久留米市山本町山本)に生まれ住み、竹籠編みの名手で、箕斎(きさい)と号した。晩年は失明したが、その後に編んだ花籠にさえ寸分の狂いもなかったほど、練達の技の持ち主であった。

 三十歳ごろ、山川村(現・久留米市山川町)で酒造業を営む風流人の豊福勝次を介して、有馬藩の御用塗師であった川崎峰次郎(1838年~1904年)のために籠を編んだ。峰次郎はこれに漆(うるし)を塗装して「籃胎漆器」を創製した。幸七の竹籠編みの技と、峰次郎の漆塗りの技とが出会ったことにより、後に言う「久留米籃胎漆器」が誕生したのである。

 幸七・峰次郎の手になる籃胎漆器は、明治二十八(1895)年の京都での博覧会出品を期に全国的に有名になり、明治三十二(1899)年には、時の皇太子(後の大正天皇)巡幸の際に献納され御嘉納の栄に浴した。さらに、明治三十七(1904)年の米国セントルイス万国博覧会でも銀杯を受賞するなど、美術工芸品としての評価は不動のものとなった。

 この碑石は、碑文に記されているように、恩師に報いるため、多くの門弟により、大正十四(1925)年、翁の生前墓として建立されたものであるが、昭和三十八(1963)年、墓地整理の際に顕彰碑に改彫され、観興寺境内に再建されたものである。
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本堂
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寺名 観興寺
住所 福岡県久留米市山本町耳納2128−1
TEL  
本尊 千手観音
創建年 白雉年中(650年頃)
駐車場  
備考