歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【福岡県那珂川市】丸ノ口古墳

f:id:rekiken9:20200405141712j:image

福岡県那珂川市の丸ノ口古墳
f:id:rekiken9:20200405141658j:image
f:id:rekiken9:20200405141704j:image

那珂川市の文化財

 

 ここ那珂川市は、博多と佐賀県神埼を、そして糸島と太宰府を結ぶ道が交わる場所として古くから栄えたところで、市内には数多くの文化財が残されています。市の中心を流れる那珂川と、支流の梶原川によってつくられた平地には、縄文時代から中世にかけて人々が生活した集落の跡が広がっています。また平地を見下ろす丘の上には前方後円墳をはじめ、500基ほどの古墳が見つかっており、その南にそびえる山々には中世から近世にかけての山城が多数築かれています。また、巨木などの天然記念物や様々な祭りも随所に残され、この地が永い歴史の流れの中で、大切な役割を果たしてきたことを物語っています。
f:id:rekiken9:20200405141721j:image

丸ノ口古墳群

 丸ノ口古墳群は60基ほどの古墳が集まってできており、この場所から見える林の中にはまだ多くの古墳が眠っています。中学校建築に伴ってその内の42基の古墳を発掘調査したところ、円墳という丸い形をした古墳と、それら円墳の間につくられた小さな石室だけの古墳が見つかりました。これらの古墳からは、イヤリングなどの「装身具」、矢じりや刀などの「武器」、馬につけた「馬具」のほか、たくさんの土器が出土しており、それらの出土品からこの古墳群は6世紀代につくられたことがわかりました。

この時期の古墳は、下の写真でもわかるように、いくつかのグループ(群)に分かれて集中してつくられているのが特徴で、群集墳と呼ばれています。
f:id:rekiken9:20200405141748j:image

丸ノ口古墳群の装飾

 装飾古墳とは、古墳の石室や石棺などに文様が描かれた古墳のことです。古墳の装飾は、外から見えない内部に行われるため、死者の霊を鎮めるために描かれたと言われています。文様をつける方法には赤や青などの絵の具を使う彩色系のものと、線を刻んだり文様を浮彫りにする彫刻系に大きく分かれます。丸ノ口古墳群の装飾は、石の表面を突くように叩いて浅く窪ませ文様を表現する彫刻系の装飾で、技法としては珍しいものです。この技法で装飾を行っている古墳は、下の分布図に示すとおり筑後地方などで数例しか発見されていません。当時の那珂川市と筑後地方のつながりを示す貴重な発見となりました。
f:id:rekiken9:20200405141915j:image

丸ノ口古墳群Ⅳ群2号墳

 直径約12mの円墳で、6世紀の後半につくられた古墳です。盛土の東側はすでに削られていましたが、調査の結果、石室の壁に直径約30㎝の「同心円文」と、「舟」や「波」を表したと思われる文様が描かれていることがわかりました。
f:id:rekiken9:20200405141832j:image
f:id:rekiken9:20200405141808j:image
f:id:rekiken9:20200405141908j:image

丸ノ口古墳群Ⅴ群9号墳

 はっきりとした盛土のない古墳で、石室も長さが約2.4mと、他の古墳に比べると小形です。出土品がないため、いつ頃つくられたかは不明ですが、下の写真からもわかるように、古墳と古墳の間につくられており、他の古墳と同じ時期ではないかと思われます。
f:id:rekiken9:20200405141842j:image
f:id:rekiken9:20200405141802j:image

丸ノ口古墳群Ⅴ群5号墳

 直径約14mの円墳で、6世紀の後半につくられた古墳です。石室の天井部分は削られてなくなっていましたが、石室の奥の壁に直径が約30㎝の「円文」が三つ描かれていました。
f:id:rekiken9:20200405141731j:image
f:id:rekiken9:20200405141900j:image
f:id:rekiken9:20200405141754j:image

丸ノ口古墳群Ⅴ群8号墳

 古墳の上部が削られていましたが、直径が約8mの円墳と思われます。石室の形態が古く、他の古墳と違いはっきりとした入口を持たないものでした。この写真からもわかるように、隣の古墳に入る墓道がこの古墳を迂回してつくられています。このことからもこの古墳が先に造られたことがわかります。出土した土器から、本古墳群の中では最も古い6世紀の前半につくられました。
f:id:rekiken9:20200405141852j:image
f:id:rekiken9:20200405141741j:image
f:id:rekiken9:20200405141815j:image
f:id:rekiken9:20200405141823j:image

 

【福岡県大野城市】雉子ヶ尾古墳

f:id:rekiken9:20200405113346j:image

雉子ヶ尾古墳

 

 大野城市の北東部にあたる乙金地区には、四王寺山や乙金山から伸びてくる小さな丘陵の上にたくさんの古墳が造られたことがわかっています。この古墳もそのうちのひとつで、雉子ヶ尾古墳といいます。南向きの丘陵斜面を利用して造られており、一番高いところで標高約51m、直径約10m、周溝幅約1mの円墳です。今から約1300~1400年前に造られた、当時の有力者の墓です。

 この場所は、乙金第二土地区画整理事業地の南端にあたります。周囲には他にも集落や須恵器窯跡などの文化財がありましたが、現在ではその姿を見ることができません。この古墳は、以前から土地所有者によって大切に保存されており、今回、区画整理組合の協力と理解の下、整備を行うこととなり、公開できるようになりました。

 大野城市内には、この他にもたくさんの貴重な文化財があります。私たちは、次の世代のためにそれらの文化財を守り・伝え・活かしていかなければなりません。
f:id:rekiken9:20200405113407j:image

雉子ヶ尾古墳の横穴式石室

 

 古墳の内部には、なくなった人を埋葬するために石で造った部屋状の空間があり、石室といいます。雉子ヶ尾古墳の石室には、埋葬のための玄室、玄室の前に設けられた前室、玄室・前室への通路である羨道があります。このような構造の石室を横穴式石室といい、入り口をふさいでいた石をはずせば何度でも玄室・前室へ出入りすることができます。一人の人のための墓ではなく、何代にわたって埋葬されたものです。(横穴式石室の中には前室がないものもあります)。

 石室全体はほぼ南北方向に伸びており、南側が開いています。全長は約6・9mですが、本来はもう少し長かったものと思われます。各部の大きさは、玄室が東西幅約2・6m・南北幅約2・6m・高さ約2・1m、前室が東西幅約1・9m・南北幅約2・0m・高さ約1・5m、羨道が残っている限りで幅約0.7~1.0m、長さ約2・0mです。
f:id:rekiken9:20200405113354j:image石室入口
f:id:rekiken9:20200405113401j:image

 

 

【福岡市博多区】石投げ地蔵

f:id:rekiken9:20200405113013j:image

地蔵菩薩の由来

 

地蔵信仰は釈迦出現以前のバラモン教の神話に出てくる地天(地神)でやがて仏教に包含されて、インド、中国、朝鮮半島で信仰されていた。

我が国も奈良時代(1270年前)より地蔵菩薩の信仰が初まり江戸時代(385年前)には信仰が盛んになったと言う記事がある。

江戸時代の福岡の学者貝原益軒の書いた筑前風土記(元禄十六年著)によれば「村の西ミヤゾノに石地蔵あり」と記されている。

この石地蔵は今より三百年以前より現在の所に祭られ「石投げ地蔵様」と呼ばれて、安産、子育て、種々の病気やなやみ事等、霊験あらたかなるため村人の信仰極めてあつく、伝え聞いた遠方よりの参詣者も数多く之にこたえてここに地蔵菩薩の由来記を立てる。

地蔵菩薩の呼び名は地域によって異なっているが何処の地蔵菩薩も変わりはありません。
f:id:rekiken9:20200405113019j:image
f:id:rekiken9:20200405113025j:image

 

【福岡市博多区】那珂八幡宮&那珂八幡古墳

f:id:rekiken9:20200405112840j:image

福岡市博多区の那珂八幡宮
f:id:rekiken9:20200405112726j:image

那珂八幡宮縁起

 

八幡神は、欽明天皇三十二年(西暦571年)宇佐の御許山に出現し、そのあと菱形山の現在地に祀った宇佐神宮が根本である。

八幡信仰は、天平時代(8世紀半ば)から王城鎮護の神の信仰としてはじまり、鎌倉幕府の開府以後(12世紀末)からに武神として崇められ・武士団の全国浸透につれて八幡神が各地に勧請され、土地の産神として祀られるようになった。

神社の西麓には元宮と称するところがあるが、那珂八幡宮の祭祀のはじめはわからない。

いま、この祭地は、昭和六十年三月から七月にかけての調査で、全長75m、後円部直径約47mの、4世紀前半に築かれた九州では、最古式の前方後円墳の墳頂にあることが確認された。

福岡平野では最大級といわれる古墳の主体部は、社殿の下にあるため構造は不明であるが、主体部の北側より出土した木棺墓からは青銅製の三角縁神獣鏡一面、硬玉製勾玉一戸、碧玉製菅玉二個、ガラス製小玉一個が出土した。

その他の出土物には銅戈、鋳型片(弥生中期)、弥生時代の土器や鎌倉時代の土師皿、石鍋などがある。
f:id:rekiken9:20200405112736j:image

武者絵馬に 少年の日の 名はありて 兵には召され 発ちてゆきたり

f:id:rekiken9:20200405112812j:image

拝殿
f:id:rekiken9:20200405112822j:image

本殿
f:id:rekiken9:20200405112830j:image

史跡 那珂八幡古墳

 

 那珂八幡古墳は、那珂から比恵にかけての広大な台地上にあり福岡平野前方後円墳の中で最も古い古墳である。

 古墳の大きさは推定全長85m、後円部の直径約50m、後円部の高さ15mである。

 後円部の埋葬施設が割竹形木棺であり、その中に副葬された三角縁神獣鏡などの出土遺物から、この古墳は福岡平野の最古の首長墓(4世紀はじめ)と考えられる。
f:id:rekiken9:20200405112803j:image
f:id:rekiken9:20200405112745j:image
f:id:rekiken9:20200405112754j:image

 

神社名 那珂八幡宮
住所 福岡県福岡市博多区那珂1丁目44−6
TEL  
御祭神 応神天皇神功皇后玉依姫
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印

 

 

 

【福岡市博多区】吉備津宮

f:id:rekiken9:20200405112550j:image

福岡市博多区鎮座の吉備津宮
f:id:rekiken9:20200405112558j:image

吉備津宮

 

 第十代崇神天皇の時、彦五十狭芹彦命四道将軍の一人西道将軍となり、弟稚武彦命とともに吉備の国に住む豪族温羅の反乱を平定して後、吉備の国造となり、吉備の国に住んだところから吉備津彦命と言ったといいます。

 吉備津神社備前の国に本社があります。九州には筑前東光寺に吉備津宮があるだけです。

 福岡県神社誌によりますと、寛文元年(1661)黒田三代藩主、光之の家臣、宮内政盛が勧請したとあります。宮内政盛は侍のうち100石以上の地行取りで、たまたま東光寺を領有し、郷里備前産土神吉備津神社を勧請したと考えられます。

 吉備津彦命と温羅の合戦は、桃太郎の猿蟹合戦物語の原型と伝えられています。

 子孫は代々吉備臣を称し、その末裔には、大宰大弐となり、怡土城を築き、のち右大臣まで進んだ吉備真備があり、又、鎌倉時代の初頭、博多聖福寺を開いた禅僧の栄西があります。

 東光寺の地名の由来は、はっきりしませんが、吉備津宮の神宮寺であったであろう来光寺からの地名であるかもわかりません。

 因みに拝殿前上の扁額裏書に天明丙午(天明六年、1786)六月・加藤■山一純の銘があります。
f:id:rekiken9:20200405112604j:image

拝殿