【長崎県長崎市】山王神社
被爆した鳥居
この鳥居は1924年(大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく烈により、一方の柱をもぎ取られてしまった。ここは爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射熱線によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。
ただ一個の原子爆弾によって、当地区もまた、ことごとく灰燼と帰したが、この鳥居は強烈な爆風に耐え、あの日の惨禍を語りつぐかのように、いまなお一方の柱で建ち続けている。しかし、その後長い年月を経たため、安全性を考慮して柱の基礎部分や接合部分の補強工事を行った。長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願ってこの銘板を設置する。
山王神社二の鳥居の吹き飛ばされた左半分
ここに横たわるのは、1924(大正13)年に建立された山王神社二の鳥居の、吹き飛ばされた左半分です。
山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居までありましたが、1945(昭和20)年8月9日の原爆投下により、爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとは倒壊しました。一の鳥居はほぼ原形のまま、また、二の鳥居は、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの、奇跡的に右半分だけ残りました。
しかし、戦後、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、現在も当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなりました。
吹き飛ばされた二の鳥居
町内会長をしていたので翌日町内のようすを見て回った。さんさんと照りつける真夏の太陽の下にあちこちの畑一杯にあるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。意識のある者はすべて泣いて救いを求めた。780余人の総人口のうち200人ぐらいは負傷はしていてもまだ生きていたし、達者な者も150人以上はいたのだが、それから10日ぐらい経ったころにはばたばたと死んで行き完全に生き残った者はわずか20人ぐらいに過ぎなかった。町内175世帯中家族そろって完全に生き残ったのは山王神社の■本氏の一家族だけである。その日朝八時頃の空襲で町内の防空壕奥深くに入り、そのまま壕内に遊んでいて赤ん坊に至る迄完全に助かったというのである。
右の文は被爆当時、町内会長だった久保忠八さん(昭和四十七年没)の手記「原爆記」(長崎原爆戦災誌に収録)の中から抜粋したものです。久保さんは昭和二十年八月九日、浦上に原爆が投下された当日、仕事で県外に出張していて難をのがれた数少ない体験者です。二日後の十一日、帰宅して目にしたのは一面の焼け野原。ご自身も妻子五人を亡くしました。その惨状を知る生き証人でもありました。昭和二十七年、被爆倒壊した山王神社の鳥居の足柱をゆずり受け、町民手づくりで碑を建立。以後、毎年、八月九日に慰霊祭を催して、犠牲となられた多くの地域住民に哀悼の誠を捧げ、世界の恒久平和を祈念しています。なお、碑は平成十八年九月の台風で折れた楠の大枝が覆いかぶさり倒れましたが、住民の募金で復元。この地、山王からの祈りを今日に継承しています。
山王神社 御案内
当神社は、島原の乱後、時の徳川幕府老中松平伊豆守信綱が此の地を通過せし際、近江の国琵琶湖岸の坂本に風景・地名共に酷似しているとて、かの地の山王日枝の山王権現を招祭してはとの進言により、長崎奉行・代官は寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社建立に着手した。当時は、神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」と称して運営された。
以後、幾度かの盛衰がありたるも地域の氏子の方々に守られて明治維新を迎え神仏分離令により、元来の神社に戻り「山王日吉神社」と改称し浦上地方の郷社となる。又明治元年、山里地区に皇大神宮が祭られたるも台風等の被害にて損壊し、再建や以後の運営も困難となり廃社を検討されるを知り氏子は山王社との合祭を願出て許可となり、明治十七年一月遷宮し以後「県社 浦上皇大神宮」と称したるも地域では「山王さん」として親しまれ、又、「浦上くんち」として大いに賑わってきた。不幸にも昭和二十年の原爆の惨禍に直面し壊滅状態となりたるも数年を得ずして苦境の中から復興の声が上がり、昭和二十四年より祭典を復活し、以後社殿境内等も次第に復活された。
昭和六十三年(1988)神社創建より、三百五十年の記念すべき年に弊殿も再建して、ほぼ旧来の姿に近く再建し得た。原爆時の遺物としては、現在は世界的にも有名となった。参道の「石製片足鳥居」と境内入口にそびえる「楠の巨木」等が残り原爆の悲惨さと平和の有難さ等を無言の内に語り掛けてくれる。又、楠木は戦後の数年で発芽、次第に繁茂し現在の雄姿となり地域の人々に戦後の復興の意欲と活力を与えてくれた。
この石の由来について
この石は、平成18年(2006年)山王神社被爆楠の木の二度目の治療の時に、右側の木の空洞の中から取り出されたものです。(爆風 秒速220m、熱2000度)その証として無数の石が、右側の木の中から発見されました。
この木の3m上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって爆風により石が舞い上がり、小石が穴の中に入ったものと考えられます。
常識では考えられないような大きな力が加わった原子爆弾の威力を物語っています。
神社に向かって左側の楠の木は爆心地に近く、主幹は途中で折れています。そのうえ、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていた為、治療の時その破片を取り除くのには困難を極めました。
山王神社の大クス
この2本のクスノキは、胸高幹囲がそれぞれ8mと6mで、市内にあるクスノキの巨樹の一つである。ともに昭和20年の原爆で主幹の上部が折れたため、樹高は10m内外であるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40m、南北25mの大樹冠を形成している。
原爆の影響で一時落葉し枯木同然であったが、次第に樹勢を盛り返し今日に至っている。
拝殿
本殿
神社名 | 山王神社 |
住所 | 長崎県長崎市坂本2丁目6−56 |
TEL | 095-844-1415 |
御祭神 | 天照大御神、豊受比買神、大山咋神、大物主神。、伊邪那岐神、伊邪那美神、高皇産霊神、神皇産霊神、天御中主神、大年神、経津主神、健瓶槌神、御代御代皇御孫命 |
創建年 | |
社格 | 郷社 |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |